批評にもっと期待していい
ひひょうにもっときたいしていい
黒嵜想と話して出てきたこと。
番組より
もっとすごいものを本当は期待してもらっていいはずだし、こっちはやってるつもりなんだけど、それが受け取られるときにどうしてもスケールダウンされた形で受け取られてしまうっていうか。
アーティストの無力感にお墨付きを与える、それは確かに今こういう状況だからしょうがないですよねみたいなポジションとして批評家が消費されてるって、結構きついですよね。
この項目について
批評に期待されているものがしょぼい。 本当はもっとすごいものを期待してもらっていいはずだし、こちらはやっているつもりなのに、 受け取られるときにどうしてもスケールダウンされてしまう。 とくに「こういう状況があって我々はこういうことができなくなっている」という アーティストの無力感に、批評家がお墨付きを与えるポジションとして消費されるのはきつい。 本当は純粋なひらめきを提供しているつもりなのに、と福尾は言う。
この項目が出てくる回
関連項目
- 状況へのリアクションを求められる新しいアイデアについて喋っている、という状況そのものを受け取ってもらえる場所が どんどん少なくなっている。
- ブドウが実は最強だったフルーツとしてのブドウは甘さという土俵では他に負けるし、ブドウジュースも リンゴやオレンジに比べて大したものではない。
- 反戦だがそればかりの世の中とも距離があるこうの史代の変わったバランス。
- 理論を作って渡す人文的なものを「僕らがやっていることを皆さんもできるようになります」 という能力の形でプレゼンすることも必要だとは思うが、 福尾はそっちにはあまり興味がない、と言う。
- 人間の本当の仕事は感動することトラックメーカー講座をやろうという話が出たときに荘子itが思ったこと。
- 花火が繋いでしまう利賀村の演劇は、日本で断絶したものを毎年やり続けているという意味で 「取っつきにくさの最高峰」なのに、花火があることでお祭りとして機能している。
- こうの史代展示を荘子itが観に行った。
- 高畑勲『火垂るの墓』を反戦映画ではないと死ぬまで言い続けた。