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2025年8月4日

真剣に話す

荘子itの韓国旅行。Kanye Westのライブより、写真家の展示とDMZのツアーのほうが 「自分のなかのリアリティのゲージが上がった」。相模原事件をめぐる佐々木健の展示と 福尾のインタビューから、象徴化の過程で失われるもの、自分のことも書くということ、 そして「言える券を配ってしまう」ジレンマへ。

放送日
2025年8月4日
長さ
1:15:34

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話の流れ

  1. 1:00カニエのライブ
    韓国で観た。砂の山の頂上に一人立つスタイルはかっこいいが、大熱狂というほどでもなく、名曲をやるから楽しいという感じ。「普通に好きだったミュージシャン」になりつつある。
  2. 7:00ポップ感覚と実験性
    サンプリングでありながらソングライティングっぽく聞こえ、異質な組み合わせも成立している。福尾はワンオートリックス・ポイント・ネヴァーやワーグナーを引き合いに出す。
  3. 10:20救済済みの人たちが集まっている場
    Ginger Rootのライブは、日本のシティポップ好きのおじさんがみんな幸せそうに聞いていた。やり尽くされた無力感すら超えて救われた人たちがたくさんいる状態。
  4. 12:20距離自体を記録する
    写真家・高橋健太郎の展示。日記的に撮っていた沖縄の写真が、同じ土地に住んでいた元従軍慰安婦の女性のリサーチと重なっていく。歴史的事実を追うのではなく、自分との距離を記録する。
  5. 15:00DMZのスタバ
    北朝鮮が肉眼で見える位置に、韓国政府が推進して展望台とスタバを作った。コーヒーを飲みながら双眼鏡で北朝鮮の人を見る。動物園くらいの感じで、みんなわきあいあいとしている。
  6. 22:00双眼鏡の先の人々への想像力
    子供の頃のニュースで北朝鮮を悪魔化してインストールされていた。実際に見る側になってみると、そう思っていること自体がどうなのかという気持ちになる。
  7. 23:00象徴化の過程で失われるもの
    相模原の事件。犯人をモンスター化し社会の歪みとして意味づけた途端、個々の被害者が「障害者」「入所者」「被害者」というのっぺりとした属性の下でならされてしまう。
  8. 26:40二重の閉じ込め
    被害者は匿名報道だった。施設に閉じ込められることと、亡くなったことすら実名を伏せられること。ただし実名を出すべきだとも容易には言えない。
  9. 28:50自分のことも書かなければならない
    他者について書く・寄り添うのは、自分を投げ出しているようで投げ出していない。自分と他者のあいだに開いている距離のちょうど真ん中に、自分の作品があるといい。
  10. 34:00言える券を配ってしまう
    参政党について喋った回を引用して何かを言う人がちらほらいた。何か言える券、LINEスタンプのようなコミュニケーションツールを配ってしまっている。言論に関わるうえでの根源的なジレンマ。
  11. 38:40分かっている俺らを醸成してはいけない
    参政党批判やSNS批判をしても虚しい。リスナーに安心感を与える番組になってしまうとまずい、という警戒。
  12. 40:00美空ひばりが好きだった
    展示の女性は美空ひばりが好きで、沖縄でライブに行くのが楽しみだったという。同じグループ展の別作品では、韓国のトランスジェンダー・コミュニティにおける美空ひばりの存在が年表に出てくる。
  13. 47:00微妙にギクシャクする鑑賞
    見に来た友人が「浜崎あゆみみたいな感じか」と言い、作り手が「違うと思う」と返す。作者が想定している複数性とは別次元のノイジーな複数性が、その夜の飲み会にあった。
  14. 51:00共産党の区議会議員
    飲み会で同席した目黒区議。まともなことしか言っていないのに票が落ちている、と憂いていた。「普通の人に政治をやってほしい」。
  15. 57:00事実上の貴族院
    プロ政治家をぶっ壊したら政権運営能力はどうなるのか。同じ問題はどの政党が与党になっても反復される。ポピュリズムとはまた別の「戦後日本って何だったの問題」。
  16. 1:01:00年を取ると自動的に分かる
    33になってやっとリアルポリティクスについて自分なりの意見を持てるようになった。能力が上がったわけでもないのに分かるようになる、という奇妙な感覚。

この回で出てきた言葉

この回からの引用

自分の中でのリアリティレベルが増していく感覚ってやっぱ一番充実感がある。

リアリティのゲージが上がる

そこでコーヒーを飲みながら双眼鏡で北朝鮮の人を見るっていう。

DMZのスタバ

その象徴化の過程で失われてる、普通に被害者のリアルな実態みたいなものが本当に思考不可能なものになっちゃってる。本当は思考不可能なものとかじゃないはずなんだよね、家族とかにとっては。

象徴化の過程で失われるもの

自分と他者の間に開いてる距離のちょうど真ん中にあるものとして、自分の書いているものとか自分の作品とかっていうものがあるといいと思う。

自分のことも書かなければならない

何か言える券を配っている、LINEスタンプみたいなコミュニケーションツールを提供して何やってんだろうみたいな。これはやっぱ言論とかそういうことに関わる上でのめちゃめちゃ根源的なジレンマだなと思ったね。

言える券を配ってしまう

それによってリスナーに安心感を与えるみたいなものになってもよくないぞ、分かっている俺らみたいなものを醸成してはいけない。

言える券を配ってしまう

やっぱ年取ると自動的に分かることってあるんだなって思うよね。

年を取ると自動的に分かる