2025年7月28日
フェス=非常勤講師
誰しもがある意味対等に喋れるということの原点から、みんなそれぞれに知性があって上下の差はない、という話へ。考えるということを頭の中だけで完結させないために、絵を描くこと、会社を経営すること、クラゲが存在することまでが並べられる。
話の流れ
- 0:09起きたばかり今1時くらい。だいたいこれくらいの時間に起きる。
- 2:50たまに一緒にゲームをやる子供がいるとそこを合わせないと難しいけれど。
- 5:45素人を出せばいいという話でもない頭のいい人が気の利いたことを言うとか、新しい視点を提示するということではなく。
- 6:00誰しもがある意味対等に喋れる人と人が喋るということの素晴らしさの原点はそこにある。二人の番組はこれはこれですごくいいけれど。
- 8:36それぞれに知性があって上下の差はない絵が上手い人は絵を描くことで考えている。喋らせたら全然喋れないかもしれないが、それでバカということにはならない。
- 9:12会社を経営することが哲学になっている哲学書を書くということ以上に、会社を経営する、コミュニティを作るということが。
- 11:26クラゲは思うとは違う形で存在している普通に考える、会議をするというのとは全然別の仕方で、生物が存在することはできる。
- 11:52頭の中だけで完結させない頭の中だけで完結するものにするために、言語優位のモデルが作られている。
- 14:17いい曲はいつでもどこでも流せばいい変な人がいっぱい集まってくる場に、改めてその言葉が出てくると。
- 17:07永遠平和のためにカントは論理をこねくり回すが、デカルトは我思う故に我あり、と言う。
- 19:58大学に行っているわけでもなく一人で哲学をしています、という人がすごいと思った。どうやって東浩紀を知ったのかと訊いたら。
- 22:49カメラさえあればインプットがそんなになくても映画は作れる。インプットとは文化的な何かを摂取することだけではなく、生きているだけで。
- 25:41そこそこキャンプに来る延長線上めちゃめちゃハードなDos Monos好きが多いかというとそうでもない。
- 28:03インテリのくせにインテリ批判そうクリシェ的に言う人もいる。スタイルの違いだと思うけれど。
- 28:03音楽家として自分もそう思うところがある。
- 30:54一人でいいことを言うよりも教養のレベルもバラバラな場のほうが。そちらのほうがいいとまでは、まだ思えていないのか思わないのか分からないが。
- 33:44フェミニンなことだと思っているそれは意外だった。でも言われてみれば。
- 36:34自分の欲望がどこにあるのか分からない全体の1割くらいではないか、という気持ちにもなる。本当は自分が何をやりたいのか。
- 39:26有機的にやっていくことが面白い自分だけで閉じた作品作りよりも、出したものにリアクションがあって、そこで調整しながら。
- 42:18社会的な意味の全くないものへのこだわりそこの差異を美的に判断できるようになっているということ。
- 45:08リレーされることまで含めて芸術そう言ったほうが楽しくないか。作品と批評の往復もそうだし。
- 48:00そこで完結してしまうこれ泣ける、で完結すると、今ある世界の手触りをむしろ強固にしていく。
- 18:01理論と実践を対置するのがミス実践に対置すべきは認識のほう。インプットとアウトプットの間にあるものが理論。
- 39:32芸術の三つの使われ方道徳、天才崇拝、セラピー。大体この三つしかなかった。
- 49:31今晩から韓国カニエのライブに行く。もともとは妻の知り合いの写真の展示を見に行く予定だった。
- 50:40神感だけに振り切りすぎ職人としての手つきと、ありえない感の両立が凄かったのに。
- 55:42打てる手数が少ない格闘家は年2、3試合しかできない。総当たり戦的な序列を作ることができない。
- 58:06ラップが一番上手ければ一番かっこいいわけじゃないプシャTとトラヴィス・スコットはスタイルも年代も違うから、本当はどっちもいいでしかない。
この回で出てきた言葉
- アウトプットまで連れていく非常勤の授業は200人規模で、単位のためだけに受けている人が多い。
- 揚げたての唐揚げを買って公園で寝る福尾が夜型で、収録の直前に起きたという話から。
- 朝倉未来格闘家。
- 頭の中だけで完結させない普通に考える、会議をする、というのとは全然別の仕方で生物は存在できる——クラゲや微生物は、思うとかではない形で生きている、と荘子itは言う。
- アラン・バディウフランスの哲学者。
- 音楽に啓蒙はいらないそもそも音楽が好きじゃない人に「音楽って素晴らしいんですよ」と言ってもしょうがない、と福尾。
- 会場に着いてからセトリを考え直すつくばロックフェスの話から。
- 芸術の使われ方は三つしかなかったアラン・バディウによれば、芸術はだいたい三つの使われ方をされてきた。
- ゲンロン戦記東浩紀の著書。
- 戦争に参加した哲学者は戦争を論じない人はやばい状況になったり危機に陥ったときにしか思考していない、という話から、福尾が小泉義之『兵士デカルト』を引く。
- 組織を作ることも考えることのうち東浩紀の近年の仕事のうち福尾が一番好きなのは『ゲンロン戦記』だという。
- その場にチューンナップされて発話される東浩紀の一人語りは、言っていること自体はいつも素晴らしいけれど、毎回同じことを言っているとも思うので最近は見ていなかった、と荘子it。
- それぞれに知性があって上下の差はないユートピア的に聞こえるかもしれないけれど、と断って荘子itが言う。
- ツイッターではありえない景色2025年7月の参院選の夜、東浩紀は9時間の選挙特番をやった。
- 哲学の無教養主義はありえるか東の放送に、数年ひとりで哲学をやっていると言う若い参加者が来て、三島由紀夫も太宰治も知らず、東のことはひろゆき経由で知ったと言った。
- 一人でフジロックは寂しすぎるフェスに行ったことがない、と福尾。
- フィールドの中で言うから面白いカニエ・ウェストは元々、手作業のビートメーカーという職人から出発した人で、真面目な職人が絶対にやらないようなありえない感、ヤバさ、神感をうまく出してくるバランスが凄かった、と荘子it。
- 兵士デカルト小泉義之の著書。
- やってない間の見せ方格闘家は年に2、3試合しかできない。
- ラップは確認であるコンスタティブとパフォーマティブの話から。
- リレーされることまで含めて芸術社会的な意味の全くないものにすごくこだわりを持って、そこの差異を美的に判断できるようになっている——それが結構人間の、というところから。
- 理論はインプットとアウトプットのブリッジ前回の「批評とは何か」の続きとして、昨日の日記にたった今書いたばかりの話、と福尾が持ち出す。
この回で触れられた項目
この回からの引用
朝の8時とかまでなんか作業してて、朝開店したての唐揚げ弁当屋で揚げたての唐揚げを買って、公園で朝9時ぐらいで寝るみたいな、そんな感じだったからね。
共産党と参政党とかに入れた人が隣に座って会話できるっていうのはなかなかすごい。ツイッターではありえない景色が作れてるっていう。
あれはゲンロンっていう場を15年ぐらいずっと維持してきたこととか、東浩紀がずっとやってきたこととか、全ての蓄積の上に成り立ってる場だなって思ったよね。
僕にとってはやっぱ『存在論的、郵便的』の対になる本があるとすれば、どっちかっていうと『ゲンロン戦記』の方が、そういう見たてで見た方が面白い本なんじゃないかって思う。
組織を作るとかメディアを作るとか、それも考えるっていうことの中に含めていいじゃんっていうことをやってるはずで。
みんなそれぞれに知性があって、頭がいいとかそういう上下の差はないんだと。例えば絵が上手い人がいたら、その人は絵を描くことで考えているようなもので。
全然違う方法で世の中を認識して、それを表現したりできるっていう意味では、言語が得意とか哲学の知識が豊富とか、全然別の思考をしてるんだっていう。
例えばクラゲとか微生物とかは、思うとかじゃない形で生きてる、存在してるわけじゃん。
考えるっていうことをやっぱり頭の中だけで完結させるとよくないっていうか。だから頭の中だけで完結するものにするために、やっぱり言語優位のモデルっていうのが作られてると思うんだよね。
いい曲はいつでもどこでも流せばいいってもんじゃなくて、やっぱその場にすごいちゃんとチューンナップされた状態で発話されるとすごくいいねって改めて思う。
カントとかヘーゲルとか偉そうに戦争について語るんだけど、結局外から戦争を語るってことと、実際戦争に参加した人たちは、戦争の哲学とか戦争の議論とかを実際やるわけじゃない。
音楽家は普段自分が聴いてるものと自分が作ってるものとの間を、なんかその間にあるブラックボックスみたいなものが、その人の理論だしっていう。
理論と実践を対置するんじゃなくて、インプットとアウトプットを、なんか外からはよく見えないんだけど何らかの仕方で繋いでいるものとして、理論っていうものを考えるみたいな。
でもデカルトはだからそれだよね。ある意味もともとめっちゃエリートでちゃんと大学とか行った人なんだけど、もう本なんか読んでもしょうがないって言って、我思うゆえに我あり、何の前提もなく自分がいるっていうところだけで出発できるみたいな。
フェスってだって友達がいないといけなさそうな感じじゃん。一人でフジロックとか寂しすぎるし、宿泊しなきゃいけないんでしょ。
会場に着いてからセトリを考え直したりするよね。この炎天下のこのほのぼのした雰囲気でこの曲やってもしょうがないな、みたいなのとか出てきたりして。
僕はもう全然興味ない人がわーっと集まってる状態の方が、むしろやる気出るっていうか。
単純に行為させるっていうか、それこそアウトプットに行くっていうところまで連れてくっていう、それができるのが一番嬉しい。
「哲学は啓蒙が大事」って言いやすいけど、音楽は別に言わなくていいじゃん。その違いだと思うよ。
これを好きになることによって別のものが好きになれるみたいな、そういう連鎖みたいな、チェーンリアクション的なもので自分の世界が広がっていくっていうことは音楽でできると思うんだけど。
本当は4つ目を考えなきゃいけないんだけど、4つ目って何なんだろうねみたいなことをバディウが言ってて。
作品ができるってこと、それ自体が面白いんじゃなくて、作品から作品にリレーされることを含めて全部芸術と言った方が楽しくないかみたいな。その作品と批評の往復もそうだし。
本当にその3つはさ、全部違うことに見えてさ、今ある現実をこう、なんていうか改めて提示し直しているというか、確認しているに過ぎない気がするんだよね。
音楽でチェキラウってさ言うけどさ、確認しろってことだからさ。
確かにラップは確認だよね。それこそリアルって。
職人的なところと、でも真面目な職人では絶対にやらないようなありえない感、ヤバさとか神感をうまくちゃんと出してくるのがすごい上手い人で。
打てる手数が少ない状態の中で、どうやって自分を価値づけするかみたいな。朝倉未来の場合はそれはYouTubeだったりとか、謎の実業家みたいなことだったりするわけだけど。
それやってない間の見せ方みたいな。やっぱカニエとかも僕外から見てて、音楽を作って音楽を発表してるそのコンテンツ自体のあり方っていうよりかは、何もやってない時の自分の雰囲気作りみたいな。
「俺だけが本物」みたいなことはクリシェなんだけど、フィールドの中でそれを言ってるから面白いであって、本当にちょっと違うとあんま面白くないのかな。