アイロニーと人生劇場は違うはず
あいろにーとじんせいげきじょうはちがうはず
フィクションは必要だ、そんなものを誰も信じていないのは分かっているが、 それがないと維持できないものもある—— 東浩紀のそういう冷めた感じで幻想を肯定する語り方に、 リアリスティックな態度だとは分かりつつ違和感がある、と福尾は言う。
番組より
そんなのが2600年前から続いてるなんて誰も信じてないんだけど、それわかってるんだけど、それがないと生きていけないというか維持できないものもあるよねみたいな、すごい冷めた感じで幻想を肯定するっていう語り方しててそれがリアリスティックな態度だっていうのはめっちゃわかるんだけど、若干そこに違和感があるっていうか。
そういうなんか東さん的なある種のアイロニーみたいなものと人生劇場的なものって本当は全然違うはずなんだよね。その違いが何なのかみたいなことがめっちゃ気になる。
この項目について
「僕は信じてないけど、みんなそういう信じるものがあった方がいいよね」 に見えてしまうから偉そうに見えるし、批判もされる。 そのうえで福尾は、まだ自分でも明確にできていないと断りながら言う—— それと人生劇場的なものは、本当は全然違うはずだ。 フィクションをアイロニカルに「必要だが空虚だと分かっている」と言うのでもなく、 愚直に一つのフィクションを信じているのでもなく、 これこそが自分のリアルなんだと居直っているのでもない。 その3つのどれでもない感じを、なんとか言葉にして掴んでみたい。
この項目が出てくる回
関連項目
- 作るための場も作っているアルバムの制作とこの番組は、原因と結果ではなく 同時期にやっていたことという平行関係でもある。
- 世界への信頼は結局、神なのか世界への信頼を取り戻すという話を重ねてきたところで、 荘子itがふと言うこと——**やっぱり世界への信頼って、 結局は神なのかな。
- 意図せず視点を行き来しているリリックの中で語りの視点が移っていることについて、 そこまで意識していないと荘子itは言う。
- 初めてライブを見るときの感じリスニングパーティーの感想から。
- エクスペリメンタルライフいわゆるヒップホップの「リアル」に最初から入門していない自分は、 現実との結びつき方を別のやり方で作るしかない——という流れで出てくる。
- フットじゃなくてフッテージヒップホップはリアルを大事にするのだが、 リアルとそれを歌っている人間を結びつけるための道具は、 人から借りてきたものにするしかない——そこが裏腹で面白い、と福尾は言う。
- お互いの劇場の領域が被っている自分の物語の登場人物にしてしまう、というのはあまりしたくない。
- それを見ているのは誰なんだお互いの劇場の領域が被っているの先で出てくる問い。