2026年8月10日
人生劇場
荘子itのソロアルバムのリリックを福尾が読み解く回。 ラップのリリックは本人以外読まない、というところから、 仮面と着ぐるみ、視点の行き来、そして 自分が作品を作るための場も作っている、という話へ。
話の流れ
- 0:09リリックを読む冒頭からそのまま歌詞が引かれる。
- 3:11リリックは本人以外読まない一人称性が強いから。
- 6:21影響が自分のものになっていく誰かにとってのそういうものになっているといい。ヒップホップはトラックもリリックもそうだ。
- 9:33見せ場だけじゃないDos Monosは見せ場しかないところがあるが、一人ならずっと出していられる。今まであまり見せてこなかったところ。
- 12:44意図せず視点を行き来しているそこまで意識していない。書き上げたものから伺い知る。
- 15:55マンダラのように描くこともできるがよりきめ細かく、長大に人生劇場を描くこともできる。それはそれで面白かろうけれど。
- 19:05幕が開いて目と目だけが仮面越しに合っている状態から、よしここから、という感じ。
- 22:15着ぐるみと仮面Madlibもそう。一番根っこで好きなものと、もう一度正面から向き合う。
- 25:30胡蝶の夢は念頭にあったかそれはなかった。でもいい指摘だと思う。
- 28:41リアルと裏腹の関係ヒップホップの「リアル」というものと。
- 31:40作るための場も作っているアルバムの制作とこの番組は原因と結果ではなく平行関係だが、番組をやってきたから出てきたものもある。
- 36:00世界への信頼は結局、神なのか意外と神みたいな。今回は掃除とか言いながら、神っぽいことも。
- 39:13楽しければ何でもいい、とは違う究極は境目がなくなってくるとしても。作品はやっている奴が。
- 42:25描いて終わりではない見たらええやん、という感じだけれど、それだけではない。
- 45:37語り方への違和感政権の話を東浩紀がどう語るか。抽象化して理論として語り、それぞれが活かしてほしい、という形。
- 48:48偉そうに見えるのはしょうがない基本的にはそういうやり方なのだから。
- 51:58声と現象街の雑踏、ノイマンのマイクで録ったラップを聴くと、デリダの議論を想起する。
- 55:12正気は保つものではなく作り出すもの理想の初期状態なんてものはない。
- 58:30漢詩的な文章日本的な文章との違い。そこまで厳密には。
- 1:00:00そういうものなんだろうな望んでいるわけではないけれど、人生はそういうものなんだろうなと10代の頃から思っていた。
- 1:03:20嘘エッセイジェロニモとのサシのやつがこの間あった。嘘エッセイの話は今度またTaiTanと。
- 1:06:40裏設定がある菅原道真ではなく藤原の子孫、というような。平安朝廷と。
- 1:10:00ジャンプ的なものだけが勝つのかそれはまずいというか、自分は嫌だ。ジャンプはジャンプでいいのだけれど。
- 1:13:20あの時の自分はおかしかったのか好きじゃない、と言われて「お前死ねよ」くらいのことを言っていた。
- 1:16:40超しょぼいハイデガー『100日後に死ぬワニ』。死を前提にしたもののエモさ。
- 27:40リアルと自分を結びつける道具は借り物ヒップホップはリアルを大事にするが、それを歌う人間とリアルとを結びつけるための決まり文句は人から借りてきたものにするしかない。
- 30:14フットじゃなくてフッテージ地元をレペゼンする、という形ではないやり方でリアルと繋がる。
- 31:14エクスペリメンタルライフ実験的なことをやろうとしているのではなく、人生が実験的になってしまったから、生き方が実験的にならざるを得ない。
- 34:08自作自演作・演出・出演を全部やるだけでなく、劇場作りも、それが人に届くための文脈まで自分で作っていた。自己的な総かり立て。
- 39:10お互いの劇場の領域が被っている自分の物語の登場人物にしてしまうのは嫌だが、向こうは向こうで人生劇場を上演していて、その領域が被っている。
- 39:16それを見ているのは誰なんだ劇である以上、観客はいるはず。神以外にありえない感じ。
- 45:25あることにしているもの象徴天皇制の話。演者である意識があるかどうかは別として、人は観客ではあるはず。
- 49:09冷めた感じで幻想を肯定する2600年続いているなんて誰も信じていないが、それがないと維持できないものもある、という語り方。リアリスティックだとは分かるが違和感がある。
- 49:09アイロニーと人生劇場は違うはず空虚だと分かっていると言うのでも、愚直に信じるのでも、これが自分のリアルだと居直るのでもない。その3つのどれでもない。
- 55:19東京コンプレックスという足場フットをレペゼンするのではなく、自分のリアルな足場の作り方。歌詞も曲もできてからついたタイトル。
- 1:01:00漢詩から始まる日本の詩歌大岡信の本は万葉集ではなく漢詩から始まり、最初に取り上げられるのが菅原道真だった。
- 1:02:48漢詩のほうが成り上がり菅原道真は漢詩で成り上がったからこそ藤原家に恨まれた。国風文化のほうがよほど貴族的で余裕がある。
- 1:08:05千年前からカードは出揃っていた漢詩も和歌も日記文学もある。嘘エッセイとガチ落語の階級闘争のような話になってくる。
- 1:08:20ジャンプ的なものとSNSリベラル的なものこの10年20年、政治的なスタンス表明とジャンプ的なものは相容れなかった。近代合理性に収まらない伝統を守っている。
- 1:11:04ちいかわのレギュレーションここからここまではこの世界の中の言葉、ここからここまでは外から見ている人間の言葉。舞台と客席を隔てる言葉の配分が厳密にできている。
- 1:12:54100日後に生きるワニ言い間違いが続く。死ぬと絶対に言わない主義の検閲が自分でも気づかないレベルで働いている。
- 1:17:20超しょぼいハイデガー死を前提にしたもののエモさ。だがそういうダサさも現実に溢れているのだから劇の一部だろう。
この回で出てきた言葉
- アイロニーと人生劇場は違うはずフィクションは必要だ、そんなものを誰も信じていないのは分かっているが、 それがないと維持できないものもある—— 東浩紀のそういう冷めた感じで幻想を肯定する語り方に、 リアリスティックな態度だとは分かりつつ違和感がある、と福尾は言う。
- 意図せず視点を行き来しているリリックの中で語りの視点が移っていることについて、 そこまで意識していないと荘子itは言う。
- エクスペリメンタルライフいわゆるヒップホップの「リアル」に最初から入門していない自分は、 現実との結びつき方を別のやり方で作るしかない——という流れで出てくる。
- お互いの劇場の領域が被っている自分の物語の登場人物にしてしまう、というのはあまりしたくない。
- 漢詩のほうが成り上がり大岡信『日本の詩歌』は、万葉集や古今和歌集からではなく 漢詩の話から始まり、最初に取り上げられるのが菅原道真だった。
- 世界への信頼は結局、神なのか世界への信頼を取り戻すという話を重ねてきたところで、 荘子itがふと言うこと——**やっぱり世界への信頼って、 結局は神なのかな。
- それを見ているのは誰なんだお互いの劇場の領域が被っているの先で出てくる問い。
- ちいかわ福尾は漫画を全部読んでいる。
- ちいかわのレギュレーション改めて読むと言葉の配置のレギュレーションがめちゃくちゃ厳密だ、と福尾は言う。
- 作るための場も作っているアルバムの制作とこの番組は、原因と結果ではなく 同時期にやっていたことという平行関係でもある。
- 日本の詩歌 その構造と素肌コレージュ・ド・フランスで日本の詩の伝統についてフランス人向けに講義した内容が、 日本語になって一冊にまとまったもの。
- 初めてライブを見るときの感じリスニングパーティーの感想から。
- ハムネットシェイクスピアが『ハムレット』を書いていた時期の家族の話。
- 100日後に死ぬワニ荘子itは当時これが好きではなく、いいと言う相手と血で血を洗う戦いをした。
- フットじゃなくてフッテージヒップホップはリアルを大事にするのだが、 リアルとそれを歌っている人間を結びつけるための道具は、 人から借りてきたものにするしかない——そこが裏腹で面白い、と福尾は言う。
- 別のやり方で元気になるなんでこんなに元気が出るんだろう、というところから。
この回からの引用
自分も本当に意図せず勝手に視点を行き来してるのを、書き上げたものから伺い知るみたいなところはある。
それに全振りしない。やっぱ別のやり方で元気になるっていうかね、そのこと自体に元気になるっていうか、別のやり方で元気になれたみたいな。
それはドラッグになっちゃうじゃん、やっぱり同じ方法で同じように快楽に来るみたいな感じだと。それだけだとやっぱりそれこそ世界への信頼が取り戻せない。
今はライブっていうものを知った状態でライブを見るから、ベースとギタードラムとかね、何やってるかも分かるしみたいな状態だけど、最初のこの誰がどこまで何やってるのかよく分かんないみたいなね。
最初は何だろうみたいな。俺だって何だろうみたいな感じだよね。
リアルっていうものが大事なんだけど、リアルとそれを歌ってる人間を結びつけるための道具は人から借りてきたものにしないとしょうがないみたいな、そこが面白いなと思うんだけど。
フットじゃなくてフッテージみたいなことなんだと思うんだよな。
実験的なことをやらざるを、やろうとしてやってるじゃなくて、俺の人生が実験的になってしまったから、そういう形で現実と自分を結びつけるしかないから、生き方が実験的にならざるを得ない。好むと好まざるに関わらず。
今回のアルバムの制作とこのシットとシッポやってきたことって、多かれ少なかれシットとシッポやってきたから出てきたものとかもあんのかなと思うんだけど。
自分が作品を作るためのものも結局作ってるっていうか、作るための場も作ってるっていうか。
自分の物語の登場人物にしてしまう、それはあんましたくないなと思うんだけど、でもなんか自分のこの劇の上演の登場人物になってもらうみたいな。お互いの劇場の領域がこう被ってて出演してもらってるみたいな。
そういう形で人と一つ関係するってそれしかないんだよみたいな。ちょっと僕の人生劇場にちょっと出てもらっていいですかみたいな感じでしかないのではないかみたいな。
俺ら自身はもちろんそれを演じながら見ているところもあるけど、本当に観客席で見てるのは誰みたいな感じはあるよね。
やっぱ世界への信頼ってやっぱ結局神なのかな。意外と神みたいな。
劇である以上観客はいるはずだからね。
ハムレットはずっと劇のこと考えてるわけよね。
→ ハムネット
そんなのが2600年前から続いてるなんて誰も信じてないんだけど、それわかってるんだけど、それがないと生きていけないというか維持できないものもあるよねみたいな、すごい冷めた感じで幻想を肯定するっていう語り方しててそれがリアリスティックな態度だっていうのはめっちゃわかるんだけど、若干そこに違和感があるっていうか。
そういうなんか東さん的なある種のアイロニーみたいなものと人生劇場的なものって本当は全然違うはずなんだよね。その違いが何なのかみたいなことがめっちゃ気になる。
漢詩ができるっていうことの方がむしろ成り上がり性が強くて、逆に道真以降のそれこそ源氏物語とか枕草子とか書かれるようになった国風文化の方がめっちゃ貴族主義っていうか。
一見したイメージとしては枕草子とかの方が素朴で日常に密着しててみたいな風に、日本みたいな和みたいな感じで素朴でいいなみたいな感じなんだけど、そっちの方がよっぽど余裕あるっていう。
言葉の配置っていうかレギュレーションの仕方がめちゃめちゃ厳密なんだよね。ここからここまではこの世界の中の言葉、ここからここまではその世界を外から見てる人間の言葉みたいな。
そもそもちいかわっていう名前自体がそれ外から名付けてるだけで、ちいかわ自身は自分のことちいかわだと思ってないし。
100日後に死ぬワニはね、超しょぼいハイデガーみたいな感じで、死を前提にしたもののなんかねエモさ。ハイデガーまだ哲学してるからいいけどさ、それエモいだけじゃんみたいな。