漢詩のほうが成り上がり
かんしのほうがなりあがり
大岡信『日本の詩歌』は、万葉集や古今和歌集からではなく 漢詩の話から始まり、最初に取り上げられるのが菅原道真だった。
番組より
漢詩ができるっていうことの方がむしろ成り上がり性が強くて、逆に道真以降のそれこそ源氏物語とか枕草子とか書かれるようになった国風文化の方がめっちゃ貴族主義っていうか。
一見したイメージとしては枕草子とかの方が素朴で日常に密着しててみたいな風に、日本みたいな和みたいな感じで素朴でいいなみたいな感じなんだけど、そっちの方がよっぽど余裕あるっていう。
この項目について
漢詩をたしなむというと貴族的でエリートっぽく見えるが、逆だ、と福尾は言う—— 漢詩ができるということのほうがむしろ成り上がり性が強く、 だからこそ道真は宮廷を支配していた藤原家に恨まれて左遷された。 道真以降の、源氏物語や枕草子が書かれるようになった国風文化のほうが よほど貴族主義で、素朴で日常に密着しているように見えるほうが余裕がある。 荘子itはそれを、嘘エッセイとガチ落語の階級闘争のような話だと受ける。
この項目が出てくる回
関連項目
- 作るための場も作っているアルバムの制作とこの番組は、原因と結果ではなく 同時期にやっていたことという平行関係でもある。
- 世界への信頼は結局、神なのか世界への信頼を取り戻すという話を重ねてきたところで、 荘子itがふと言うこと——**やっぱり世界への信頼って、 結局は神なのかな。
- 意図せず視点を行き来しているリリックの中で語りの視点が移っていることについて、 そこまで意識していないと荘子itは言う。
- 初めてライブを見るときの感じリスニングパーティーの感想から。
- エクスペリメンタルライフいわゆるヒップホップの「リアル」に最初から入門していない自分は、 現実との結びつき方を別のやり方で作るしかない——という流れで出てくる。
- フットじゃなくてフッテージヒップホップはリアルを大事にするのだが、 リアルとそれを歌っている人間を結びつけるための道具は、 人から借りてきたものにするしかない——そこが裏腹で面白い、と福尾は言う。
- お互いの劇場の領域が被っている自分の物語の登場人物にしてしまう、というのはあまりしたくない。
- それを見ているのは誰なんだお互いの劇場の領域が被っているの先で出てくる問い。