令和人文主義は誰も自称しない
れいわじんぶんしゅぎはだれもじしょうしない
令和人文主義という言葉は不思議なことに誰も自称せず、 「自分以外みんなそう」という形でしか使われない。
福尾はこれを「三宅香帆一強という現実から目をそらしたいという欲求の現れ」 だと見る。三宅が格段に突き抜けているという現実を受け入れたくないために、 「そういう人たちがいるよね」とぼやっとした集合が作られている。 最大公約数的には「働いている人に向けた人文書」と定義されるが、 それではまだ浅く、むしろ会社員的な人が抱える「これでいいのか」に寄り添って 「降りていいんだよ」という許しを与える傾向のほうが本体ではないか。 福尾自身はXで「結局、退職代行的なものでしょ」と半分悪ふざけで言った。 浅田彰の「自分より頭のいい人に向けて書かないといけない」を引いて 令和人文主義をくさす人は多いが、 「じゃあその人たちのうちのどれだけが『非美学』にちゃんと反応してくれたんですか」。
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関連項目
- 他人の日記福尾が構想している日記本のタイトル。
- 置き配写真館の構造的な問題自分の家に届く置き配写真は、毎日歩いている玄関先を無造作にピンボケで撮った 写真が急に送りつけられてくるという、めちゃくちゃ不気味で変な体験だ。
- 真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、 かえって著者の意図を裏切っている——そこが面白い、と福尾は言う。
- 批評は人間関係の話しかしていない考察より思想のほうが面白い・偉いと、批評をやっている自分もやはり思う。
- 序文というパレルゴン序文は順番としては一番最初に来るのに、たいていは本文を書き終わったあとに書く。
- 感想ツイートに懸賞金公式のトークイベントや帯コメントの推薦よりも、ポッと出たかのような感想ツイートが みんなの問題意識に接続して一気に跳ねる。
- 福尾匠『置き配的』発売から1週間、ずっとエゴサをしていた。
- 置き配的2025年11月刊。