置き配写真館の構造的な問題
おきはいしゃしんかんのこうぞうてきなもんだい
自分の家に届く置き配写真は、毎日歩いている玄関先を無造作にピンボケで撮った写真が急に送りつけられてくるという、めちゃくちゃ不気味で変な体験だ。
だが他人の家の置き配写真になると、そのインパクトがかなり目減りしてしまう。抽象的なリミナルスペース的なものになってしまうが、本当は「見慣れていたはずのものが意表をついた撮られ方をしているときのちょっとしたホラー感」こそが重要だった、と荘子itは分析する。これは「他人の夢の話は面白くない」——自分がこんな夢を見たということに自分が一番驚くのであって、他人には前提が分からない——のと同じ構造。
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関連項目
- 他人の日記福尾が構想している日記本のタイトル。
- 真逆の方向から作者を殺す考察は「著者の意図」というフィクションにすがりつくことによって、かえって著者の意図を裏切っている——そこが面白い、と福尾は言う。
- 批評は人間関係の話しかしていない考察より思想のほうが面白い・偉いと、批評をやっている自分もやはり思う。
- 序文というパレルゴン序文は順番としては一番最初に来るのに、たいていは本文を書き終わったあとに書く。
- 令和人文主義は誰も自称しない令和人文主義という言葉は不思議なことに誰も自称せず、「自分以外みんなそう」という形でしか使われない。
- 感想ツイートに懸賞金公式のトークイベントや帯コメントの推薦よりも、ポッと出たかのような感想ツイートがみんなの問題意識に接続して一気に跳ねる。
- ゲラチェックをしたくない日記本にゲラチェックを入れたくない、と福尾は言う。
- 読み上げないコメントコメントは全部読んでいるが、番組では読み上げない。