挑発的な定義と最大公約数的な定義
ちょうはつてきなていぎとさいだいこうやくすうてきなていぎ
福尾の『非美学』は「批評とは最も自由な散文である」という、 誰も一発では納得しない定義から始まる。
番組より
最大公約数的な、みんなここから始めましょうっていう合意を取って始めるってことと、でもそれでいろんなものを挑発していくってことが同時になされてるのがすごいなと思って。
この項目について
びっくりさせて、それでも読んでもらって なんとか納得してもらうというやり方。 対して三宅の『考察したがる若者たち』は「考察には正解があり、批評には正解がない」 という、みんながある程度「確かに」と思えるところから始めて、 その大枠の中にいろんなものを詰め込んでいく。 本来この二つは対立するはずで、最大公約数的な定義は 「みんな納得できるけど60点」に終わってしまうはずだ。 だが三宅の本は、合意を取って始めることといろんなものを挑発することが 同時になされている——それはやっぱり強い、と福尾は言う。
この項目が出てくる回
関連項目
- 疎密『置き配的』の中心にある対で、密がノイジーマイノリティ、疎がサイレントマジョリティを指す。
- 潜って書く誰かに向けて書いてはいるが、書き方としては語りかけない。
- 難しいと怖いは関係ない哲学は難しい学問だし、難しく書かなければいけない側面もある。
- 批評は批評でダメになった批評の時代から考察の時代になっている気はするが、批評が元気をなくしたのは 考察が出てきたからではなく、単純に批評は批評で元気がなくなっていっただけ という側面もあるのではないか、と福尾は問う。
- 考察されて嬉しい作者はいない考察は作者の意図を当てようとするので、一見すると作者を大事にしている、 尊敬しているように見える。
- 町山智浩菊地成孔と喧嘩してもその後も同じ場に出ている例として挙げられる。
- 濱口竜介演技論の本を出している人として、まだメソッド化できていない自分と対比される。
- 三宅香帆「本好きの壁」を越えた人。