濱口竜介映画監督
はまぐちりゅうすけ
演技論の本を出している人として、まだメソッド化できていない自分と対比される。
番組より
別にそんなのシネフィル的な引用とかではなくて、なんか現にもそれが到来してるっていう感じっていうか、映画の歴史の中でみたいな感覚をね。信仰ですね、これは。
この項目について
2026年1月19日の回
蓮實重彦の直系の黒沢清のさらに直系にあたる映画監督で、映画批評も面白い。現場で今の映画をやっている人が、全然偉そうでなく批評的に作品を丹念に読み込むのがめちゃくちゃ面白い、と荘子itは言う。三宅唱・三浦哲哉との7年ほどの勉強会が『映画の勉強会』になった。
2026年7月13日の回
「映画界の大谷翔平」と荘子itは言う。スポーツほど勝敗や興行成績がはっきりする世界ではないけれど、ヨーロッパ的な伝統のなかの日本の映画という文脈では、それくらいのところまで来た。同時に地元の最高の先輩でもある。
2026年7月20日の回
前回に続いて『急に具合が悪くなる』をめぐって話題になる。福尾が気になっているのは消費のされ方で、「本当にいい人」「本当にいい人」という受け取られ方が彼にとって本当にいいことなのか、と。映画を使ったある種の宗教だとしても、宗教的な肯定と道楽的な肯定は違う気がする、と荘子it。荘子itのほうは、オリヴェイラが精神病院でダンテの『神曲』を撮った作品や、『寝ても覚めても』のときに重なったアンゲロプロス『旅芸人の記録』のように、シネフィル的な引用ではなく映画の歴史の中で現に到来しているという感覚を受け取ってしまうという。「これは信仰ですね」。そのうえで、濱口をある種のマニエリストとして評価する、甘口ではない批評があってもいいのではないか、と福尾は言う。
この項目が出てくる回
関連項目
- 生き様2.0福尾がXで言い出した、まだ実態のわからない概念。
- 自伝と日記自伝は老境に差しかかった半分死んでいる立ち位置から自分の人生を全体化して書く。
- 3対3対1000ワンマンライブの配置。
- これでしかないフォーメーションシンメトリーでも黄金比でもなく、すごくバラバラなのに「これでしかない」というバランスが舞台上に成立する瞬間。
- 練習という概念がないゴダールは、映画監督には音楽家やスポーツ選手のような練習の概念がないのが問題だと言った。
- 自由は動詞である東浩紀の訂正可能性のパロディ。
- 全部がテロリズムになる日本の公共空間では、ハプニング的なパフォーマンスがギリギリ共存する感覚がなく、みんながスマホを見てじっとしているか、地下鉄サリン事件のようなものが起きるかの両極になる。
- 破壊し尽くさない不謹慎さ『北国の帝王』が良いのは無賃乗車がOKだからではなく、鬼のような車掌がぶち殺すところまで含めていいから。
となりで喋られていたこと
韻を踏んでいること
この項目に言及している項目
- 考察されて嬉しい作者はいない考察は作者の意図を当てようとするので、一見すると作者を大事にしている、尊敬しているように見える。
- 疎密言うべきことで満たされた空間と、言うべきことがまばらな状態とを、単なる程度の差ではなく概念として分けるための対で、詰まっているほうが密、まばらなほうが疎。
- 挑発的な定義と最大公約数的な定義福尾の『非美学』は「批評とは最も自由な散文である」という、誰も一発では納得しない定義から始まる。
- ハート・ロッカー論争宇多丸が『ハート・ロッカー』を「War is a drug、戦争というスリル中毒で何度も戦地に帰ってしまう映画だ」と論じたのに対し、町山智浩が「それは間違っている、最後はドラッグ中毒ではなく仲間のために戦地に戻る話になっているんだ」とキレた
- 批評は批評でダメになった批評の時代から考察の時代になっている気はするが、批評が元気をなくしたのは考察が出てきたからではなく、単純に批評は批評で元気がなくなっていっただけという側面もあるのではないか、と福尾は問う。
- 難しいと怖いは関係ない哲学は難しい学問だし、難しく書かなければいけない側面もある。
- 潜って書く誰かに向けて書いてはいるが、書き方としては語りかけない。