疎密は物の性質ではなく視点
そみつはもののせいしつではなくしてん
疎密はミニマリズムとマキシマリズムに対応するわけではない。
番組より
このスタイルだから疎なんだ密なんだって言えない。だから情報社会論とか消費社会論的になっている本だから、単なる美的な話じゃなくて受け取られ方、マルクスの生産じゃなくて交換のところから見るっていうような視点の本だから。
この項目について
表現の手法の密度が濃い/薄いということではなく、鑑賞者がどう受け取るか、SNSの反応の仕方はどうか——交換のところから見る視点なのだ、と荘子it。福尾も「物そのものの性質の問題というよりスタンス、視点の違い」と受ける——同じものでも疎だと思えば疎だし密だと思えば密で、疎だと思うことで得られるメリットも、密だと思うことで得られるものもある。それでも基本方針としてはフラットな二元論ではなく、疎の方がいいよねとなっているのは、ドゥルーズのツリーとリゾームと同じ構造——視点の違いなのか、価値づけなのか、基礎づけなのかが一色単にされている二項対立を踏襲しているところがある。
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関連項目
- 疎だと思えば疎、密だと思えば密疎密は物そのものの性質ではない。
- だから疎という概念を作った受け取る側が密だと思ったら、もうそれは密なのだ——先週のレディオヘッド性の話と同じで、そこは動かせない。
- 疎密と疎密の対比これを言い始めるとややこしくなるので今まで言わないようにしていた、と福尾が前置きして出す話。
- 意味自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使いはじめている。
- 日記的か自伝的か疎密とは別に、もう一つ立てている軸。
- 世の中が密だと疎なものも密になるだから、ただ疎なことをやっていればいいということでもない。
- スパーシティ「疎」は英語にも輸入されてほしい、という話から。
- 疎という言葉自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使い始めている——誰も隅々まで正確に理解しているわけではない(福尾も含めて)のに多発的に応答されて、言葉ってこうやって命が吹き込まれていくんだ、と荘子it。