2026年4月6日
Yeと疎
『置き配的』の疎密がXで独り歩きしはじめたところから、疎密とは物の性質ではなく視点なのだ、という話へ。受け取る側が密だと思ったらそれは密である——だからこそ「疎」という概念が要る。終盤では、本当は「粗密」と「疎密」という同音の二軸の対立こそが問題なのだと、これまで言わずにいたことが出てくる。
話の流れ
- 4:28疎という言葉に命が吹き込まれていくXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」を使いはじめている。誰も完璧に理解してはいない——福尾自身も含めて。それでも多用されて言葉に命が吹き込まれていく。
- 4:49意味自体がまだスカスカ「疎」という言葉自体がスカスカということだが、その意味自体もまだある程度スカスカで、まだジャンルにとらわれていない。
- 6:20物の性質ではなくスタンス密度が濃いとかミニマリズムだとかではなく、鑑賞者がどう受け取るか、SNSの反応がどうかも含まれる。マルクスの生産ではなく交換のところから見る視点の本。
- 7:25疎だと思えば疎、密だと思えば密同じものでも視点によって変わる。疎だと思うことで得られるメリットも、密だと思うことで得られるものもある。ただし方針としては疎な方がいい。
- 17:43受け取る側が密だと思ったらレディオヘッド性の話と同じで、受け取る側が密だと思ったらもうそれは密。トーンポリシングという言葉での批判は無敵になってしまう。
- 18:29だから疎という概念を作った密だと思われたらそれは密だ、というのはある種事実だが、そればっかりだとやばい。だから「疎」という概念を作った。
- 23:10日記的か自伝的かもう一つの軸。疎は日記的で、毎日バラバラと自分から剥がれ落ちていくもの。自伝はそれを全部ひとつのストーリーに圧縮する。
- 26:05世の中が密だと疎なものも密になるだからただ疎なことをやっていればいいということでもない。作り方も、作ったものの性質も、需要のされ方も、あらゆるレイヤーが関わる。
- 1:00:00疎密と疎密の対比これを言い始めるとややこしくなるので今まで言わないようにしてきた。粗さ細かさの軸と、まばら密の軸。本当はこの二軸の対立が一番クリティカル。
- 1:00:37入門書ブームと専門書の権威主義分かりやすく噛み砕くのがいい、と言うと、真逆に専門書の方が偉いという価値観が立ち上がる。粗いものと細かいものの対立で、両者は共依存的な共犯関係にある。
- 1:01:09四象限にしたくない二軸だと図式化したくなるが、それをやるとギャグみたいになる。「四象限、僕一番嫌いなぐらい嫌いだから」。
- 5:16疎という言葉自体がまだスカスカまだ括られていないかっこいいものに当てはめられようとしている。
- 12:30スパーシティクワイエットラグジュアリーと言うより。
- 36:04ホモソのノリに乗らないそういう人が一人いると、それだけで異質で、密に反転してしまう。
- 57:29密閉した途端に製品になる料理の許可は個人に、製品の許可は工場に付与される。
- 1:10:31不安より不調芥川が「ぼんやりした不安」と言って死んで、来年で100年。
この回で出てきた言葉
- 意味自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使いはじめている。
- スパーシティ「疎」は英語にも輸入されてほしい、という話から。
- 疎だと思えば疎、密だと思えば密疎密は物そのものの性質ではない。
- 疎という言葉自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使い始めている——誰も隅々まで正確に理解しているわけではない(福尾も含めて)のに多発的に応答されて、言葉ってこうやって命が吹き込まれていくんだ、と荘子it。
- 疎密と疎密の対比これを言い始めるとややこしくなるので今まで言わないようにしていた、と福尾が前置きして出す話。
- 疎密は物の性質ではなく視点疎密はミニマリズムとマキシマリズムに対応するわけではない。
- だから疎という概念を作った受け取る側が密だと思ったら、もうそれは密なのだ——先週のレディオヘッド性の話と同じで、そこは動かせない。
- 解き放たれた無レイ・ブラシエの著書、中山肇訳。
- 日記的か自伝的か疎密とは別に、もう一つ立てている軸。
- ぶつかりおじさんの集まりだと思われているゲンロンでのイベントを前に、福尾が一つのキーワードとして考えていたこと。
- ホモソのノリに乗らない人がいると密に反転するなぜ自分がある種の人にはめっちゃ密に感じられるのか、と福尾が自己分析する。
- ぼんやりした不調滋賀の総合診療の病院——「なんかしんどいんで来ました」で「オッケー」となる、ぼやっとした病院を実験的にやっているところ——が出している雑誌『アンキュワード』に寄稿したエッセイのタイトル。
- 密閉した途端に製品になる大和田俊の炭酸水の作品について。
- 世の中が密だと疎なものも密になるだから、ただ疎なことをやっていればいいということでもない。
この回で触れられた項目
この回からの引用
疎っていう言葉自体が何かスカスカってことだけど、なんかその意味自体がまだある程度スカスカっていうか。常に何かまだジャンルにとらわれてないというか。
疎が疎がなっていくんじゃないかみたいなのは感じだね。まだくくられてないかっこいいものに、今疎っていうワードが当てはめられようとしてるんじゃないかっていう風にすら感じるよね。
このスタイルだから疎なんだ密なんだって言えない。だから情報社会論とか消費社会論的になっている本だから、単なる美的な話じゃなくて受け取られ方、マルクスの生産じゃなくて交換のところから見るっていうような視点の本だから。
同じものでも疎だと思えば疎だし、密だと思えば密。疎だと思うことによって得られるメリットもあるし、密だと思うことによって得られるものもあるよねみたいな。でも基本的な方針としては、フラットな二元論じゃなくて疎な方がいいよねっていう。
でもクワイエットラグジュアリーっていうより、なんかスパーシティって言った方が嬉しくないかみたいな。
→ スパーシティ
やっぱ受け取る側が密だと思ったら、もうそれは密なんだよね。
密だと思われたらそれは密なんだっていうのはある種事実なんだけど、でもそればっかりだとやばいから、疎っていう概念を作ったんですけど、みたいな。そっちの意味も拾ってくれると欲しいなみたいな。
世の中が密だと、疎なものも密になってしまうみたいな。だからただ疎なことをやってればいいってことでもないみたいな。
著者に会わないと買えない雑誌っていうのが一番大きいコンセプトで、文フリにも出ないし通販もやらないし書店の委託販売もやらないっていう。
→ アーギュメンツ
批評ってでもそもそもホモソだから、ホモソ空間のやつにそういうやつが一人いるとめっちゃ異質なんだよね、それだけで。
でもそれによって、なんやこいつみたいな圧を感じて、密に反転しちゃうみたいな現象が発生する感じはめっちゃわかる。
批評って傍から見ると、ぶつかりおじさんの集まりだと思われてるっていう前提から出発しないといけないと思うんだよね。それをどうやって乗り越えるかっていうと、アイディアに転がされてる面白い人たちなんだって思ってもらわないと。
料理を提供するための許可証は個人に付与されるんだけど、製品を作ってそれを人に配るための許可は工場に付与されるんだよね。人間じゃなくて場所に付与される。
疎密の対比が本当は問題なんじゃなくて、疎密と疎密の対比が問題だっていう風に僕は実は思ってるんだけど。
→ 疎密と疎密の対比
入門書ブームと専門書の権威主義って共犯関係にあると思うんだけど、それとは全く別の軸として、細かい粗いじゃなくて、まばらなものと密なものの世界があるみたいな、こっち側を擁護したい。
→ 疎密と疎密の対比
芥川龍之介がぼんやりした不安って言って死んだのが1927年で、来年で100周年だから。今やっぱ問題なのは不安より不調だよな。
→ ぼんやりした不調