解放される対象であることを拒否する
かいほうされるたいしょうであることをきょひする
荘子itは「ヒロインと恋愛関係にならずに、彼女を負のループから解放する」 タイプの話がすごく好きだ。
番組より
解放される対象としての振る舞いを求められ、作者フォークナー、その創造した人物から求められても、それをキャラクター自体が裏切るような振る舞いをするっていうところに、映画ではなかなかうまく表現できない文学ならではの可能性があるんです、みたいな。
この項目について
だがそれは現実の女性解放とは何の関係もない。 むしろ、そういう物語は「不遇の女性キャラクター」を必要としている点で 反フェミニズム的なのではないか——アートウォッシングのように、 物語の中で解放感を生むことによって、かえって現実を硬直化させ、 ガス抜きになってしまうのではないか。 そう思ってChatGPTにガチで相談したところ、こう返ってきたという。 『八月の光』のようなものでは、まさにその「解放される女性」として 要請されるキャラクター像であることを、キャラクター自身が拒否する、 攪乱するような身振りを見せる。作者——フォークナー、 つまり自分を創造した人物——から解放される対象としての振る舞いを 求められても、それを裏切るように振る舞う。 そこにこそ、映画ではなかなかうまく表現できない文学ならではの可能性があり、 それは現実の女性解放にもつながるはずだ、と。 「いやすごいなと思って。ちゃんと読んでないんだけど、そうかもしれないという 気持ちにさせられた」。
この項目が出てくる回
関連項目
- 白昼夢感『旅と日々』『海辺へ行く道』『ミゼリコルディア』のような、 フィクションでもドキュメンタリーでもない淡いのものを、つい「夢みたい」と言ってしまう。
- 映画に一番似ているのは映画館を出た後の雨ドゥルーズ『シネマ』の議論。
- 真ん中から始めるフォークナー『八月の光』を読んだ福尾の見立て。
- 物語だけがドライブしていない状態物語が大事なのではない、と言い切って本当に物語を退けると、それはそれで面白くない。
- 努力に対して報酬があると理解させる福尾のエッセイ講座のレジュメにあった原則。
- 括弧つきの男の子っぽさ『8番出口』を絶賛したが、あれもいくらでも批判の余地がある、と荘子itは言う。
- William Faulkner『八月の光』を福尾が読破した。
- 保坂和志物語ではないところに小説の面白さがある、と言い続けてきた人として名前が挙がる。