2025年10月13日
物語の楽しみ方、フォークナーから推し活まで
荘子itの夢は現実の再構成でしかない、という話から「白昼夢感」へ。 ドゥルーズ『シネマ』が「映画=夢」という図式を解体し、 映画に一番似ているのは映画館を出た後の雨だと言ったこと。 そしてフォークナー『八月の光』の「真ん中から始める」書き方。
話の流れ
- 0:08夢が現実の再構成でしかないツアーバスで見たUFOの爆撃の夢も、イスラエルに拉致される夢も、寝る前に読んだもの・見たニュース・隣にいた人がそのまま出てくる。「無意識はどこにあるんだ」。
- 6:40他人の夢の話には興味を持ちにくいそれは大前提として理解したうえで、「自分の夢がそのまますぎるのはどうしてなのか」という相談をしたい、と荘子itは線を引く。
- 8:50将来の夢と夜見る夢別のもののはずなのに、日本語でもドリームでも同じ言葉になっているのはなぜか。
- 10:00夢みたいな、という言い方『旅と日々』『海辺へ行く道』『ミゼリコルディア』。フィクションでもドキュメンタリーでもない淡いのもの。それを「夢みたい」と言ってしまうが、使い古された言葉でうまく表現できない。
- 12:30映画に一番似ているのは映画館を出た後の雨ドゥルーズ『シネマ』は「映画=夢」も「映画館=母の胎内」も批判する。夢と現実のギャップで物語を動かすのではなく、不眠症や白昼夢のほうが映画にとってリアルだと言う。
- 16:00駐車場のスタッフに作為が見えてくる『旅と日々』を観て劇場を出ると、棒を持った駐車場のスタッフが物語的な役割を演じているように見えてしまう。何でもないものに作為が見えるが、物語には結びつかない。
- 19:00良きオルタナ普通の意味で大ヒットしている映画には当てはまらない。地味なコンテンツとして片付けていいものではなく、最近のいいラインをついている面白いものは全部つながっている。
- 19:20真ん中から始めるフォークナー『八月の光』。書けるところまで突き詰めて、これ以上どう書いていいか分からなくなったところでいきなり別の場面に飛ぶ。それがただ繰り返されている。
- 26:00物語だけがドライブしていない状態物語はいらないと言い切って本当に物語を退けると、それはそれで面白くない。物語を使ったうえで物語だけが面白さをドライブしていない状態が理想ではないか。
- 28:30日記ブームの悪い側面文章や文体をフォーマリズム的に扱う態度が強くなり、「結局大事なのは何が言いたいかですよね」という大前提がスキップできるかのような幻想が生まれている。
- 29:40努力に対して報酬があると理解させるエッセイ講座のレジュメ。誰か分からない人の日記は読む価値がない状態から始まるので、1、2行目で「意外と面白いかも」という報酬を体験させないといけない。
- 34:40ひらめきの連続だけで生きていきたい熱がある状態でしか出てこないものがある。イケてるんだから、という自信とセットで。
- 53:02八月の光の二重構造男を探して街に出るリーナと、白人に見えるが黒人の血が入っているらしいジョー・クリスマス。二人は出会わないまま同じ街で過ごす。そのすれ違いこそがメインテーマ。
- 55:05ヒロインと恋愛関係にならずに解放するそういう話が荘子itはすごく好きだが、現実の女性解放とは何の関係もない。むしろ不遇の女性キャラクターを必要としている点で反フェミニズムなのではないか、とChatGPTに相談した。
- 56:36解放される対象であることを拒否する作者から「解放される対象」としての振る舞いを求められても、キャラクター自身がそれを裏切る。そこにこそ、映画ではうまく表現できない文学ならではの可能性がある。
- 57:16バーチとバンチ夫のバーチを探しに来たリーナが、聞き間違いでバンチのところに行ってしまう。そのバンチがリーナを好きになり手助けする。下心もちゃんと描かれている。
- 1:01:00男の子的な妄想でドライブする物語『8番出口』も『イレイザーヘッド』も、妊娠させた男のある種無責任な恐れを表現している。手放しで褒めるには、語られていない物語がたくさんある。
- 1:02:56括弧つきの男の子っぽさ男性目線とされる文体や設定でしか描けないエモーションはある。しかもそれは女の子も好きなもので、そこに男女の境はない。
- 1:03:10物語の形と思想は区別するあまりに当たり前の話だが、基本的にはそこを区別すべきだと思う。
この回で出てきた言葉
- William Faulkner『八月の光』を福尾が読破した。
- 映画に一番似ているのは映画館を出た後の雨ドゥルーズ『シネマ』の議論。
- 解放される対象であることを拒否する荘子itは「ヒロインと恋愛関係にならずに、彼女を負のループから解放する」 タイプの話がすごく好きだ。
- 括弧つきの男の子っぽさ『8番出口』を絶賛したが、あれもいくらでも批判の余地がある、と荘子itは言う。
- シネマ「映画=夢」という図式を解体するために書かれた本。
- 旅と日々つげ義春の短編二つがモチーフ。
- 努力に対して報酬があると理解させる福尾のエッセイ講座のレジュメにあった原則。
- 白昼夢感『旅と日々』『海辺へ行く道』『ミゼリコルディア』のような、 フィクションでもドキュメンタリーでもない淡いのものを、つい「夢みたい」と言ってしまう。
- 八月の光福尾が読破して絶賛。
- 保坂和志物語ではないところに小説の面白さがある、と言い続けてきた人として名前が挙がる。
- 真ん中から始めるフォークナー『八月の光』を読んだ福尾の見立て。
- 物語だけがドライブしていない状態物語が大事なのではない、と言い切って本当に物語を退けると、それはそれで面白くない。
- 夢日記荘子itの夢はほぼ現実の再構成でしかない。
この回からの引用
映画に一番似てるのは映画館を出た後の雨なんだっていう。映画館を出た後の夜道に雨が降ってて、そこを歩いていく孤独な感覚っていうか、冷めた感じの方がリアルなんだっていう風に言うんだよね。
ただの現実の再構成なんだけどみたいな、でも現実とちょっとタガが外れてる、その再構成の仕方がちょっと妙っていう。
→ 白昼夢感
真ん中から始めたらもうすぐ終わっちゃうじゃんっていうことになるんだけど、真ん中から始めるからこそ別のものが出てくるっていう。
→ 真ん中から始める
解放される対象としての振る舞いを求められ、作者フォークナー、その創造した人物から求められても、それをキャラクター自体が裏切るような振る舞いをするっていうところに、映画ではなかなかうまく表現できない文学ならではの可能性があるんです、みたいな。
括弧つきの男の子っぽいものって別に女の子も好きだし、そこに男女の境がないと思う。括弧つきの男の敵とされるような文体とか設定でしか描けないエモーションは、それはあるんだよな。