結果的にケアになっているもの
けっかてきにけあになっているもの
荘子itも、ケアという文脈で語りたくないと思っていた—— **ケアという形ではなく、結果的にケアになっているもののほうが好き。
番組より
ケアっていう形じゃなくて、結果的にケアになってるみたいなものの方が好きだなみたいな。
実際俺も、病院に行ったりするよりも本を読んだり作品を見たりすると、いつの間にか元気になったりするパターンもあるしな。
この項目について
** 病んでいる人の、まさに病んでいる部分にレッテルを貼って 対症療法的に対処するのではなく、 病んでいると言っても普通に大丈夫なところもあって、 そこにアクセスしているうちに結果としてケアされている—— そのアハ体験のようなもの。 実際、病院に行くより本を読んだり作品を見たりするうちに いつの間にか元気になったりするパターンもある。 ケア論だってそういうことも含めてやっているのだから、 「ケア論と歌うか歌わないか」の違いでしかないとも認めつつ、 その警戒のせいで漫画を一冊ずっと読まずに伏せていた、とも言う。
この項目が出てくる回
関連項目
- 修行してから世に出ようとするな福尾がフィロシャピーのエッセイ講座でよく言うこと。
- 通念のフィルターに自分を通す変な操作内向的か外向的か、という世に言う通念——常識のようなもの——があって、それに一度自分を通してみて、どちらになるかを見る。
- 質問で最後に大きく転ぶ仕込みかと思うくらい、質問によって話が最後に大きく転んで大テーマにたどり着くことが結構ある。
- 反か脱か非か、その次に異現代思想系の人がよく言うこと——破壊ではなく脱構築だとか、反戦ではなく非戦だとか(それは坂本龍一だが)。
- そこからその結論が出てくるのか福尾が荘子itについて言うこと—— **一個一個の言っていることはすごくよく分かるし共感する部分も多いのに、 次の一歩がどこに行くかが常に分からない。
- 自認は自分にしか分からないはず「自認レゼ」のように、他人の自認を勝手に当て込んで言う—— それは言うまでもなく失礼だし、めっちゃ変な気がする、と福尾は言う。
- ADHDの身体をプレイしている2〜3時間かける詳しい検査を受けて診断が下りている。
- 嫉妬は他人に貼り付けられる私的言語「令和人文主義への批判は結局は嫉妬なのでは」というリスナーの問いに答えて。