解き放たれた無書籍
ときはなたれたむ
レイ・ブラシエの著書、中山肇訳。
思弁的実在論に先鞭をつけた本で、長い時間をかけてようやく翻訳された。荘子itが手に取ったのは、その訳者がアーギュメンツの3号の編集者だったという偶然から。ニヒリズムをちゃんと肯定する方向で、ニーチェもその後の哲学者も「無」をちゃんと解き放っていないよね、というところで全部やっていくスタイルらしい。「ポストポストアポカリプス的な発想でいくと、無ぐらいからちゃんと始めようみたいなのがある」。無 vs 疎、という話になる——「疎は結果論みたいなところがあるけど、無はもっと根源的な感じがする」。
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関連項目
- 疎だと思えば疎、密だと思えば密疎密は物そのものの性質ではない。
- だから疎という概念を作った受け取る側が密だと思ったら、もうそれは密なのだ——先週のレディオヘッド性の話と同じで、そこは動かせない。
- 疎密と疎密の対比これを言い始めるとややこしくなるので今まで言わないようにしていた、と福尾が前置きして出す話。
- 意味自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使いはじめている。
- 日記的か自伝的か疎密とは別に、もう一つ立てている軸。
- 世の中が密だと疎なものも密になるだから、ただ疎なことをやっていればいいということでもない。
- スパーシティ「疎」は英語にも輸入されてほしい、という話から。
- 疎という言葉自体がまだスカスカXでいろんな人が何かの感想にかこつけて「疎」という概念を使い始めている——誰も隅々まで正確に理解しているわけではない(福尾も含めて)のに多発的に応答されて、言葉ってこうやって命が吹き込まれていくんだ、と荘子it。