内容が全くない形式に従う気楽さ
ないようがまったくないけいしきにしたがうきらくさ
ジャーナリングの本は **「1日1行でいい」「1日5分でいい」と、 短時間ですぐ終わることをめちゃくちゃ推している。
番組より
内容が全くない単なる形式に従うことにある種の気楽さを感じてしまうとか、それでちょっとある種自分が救われたような感じがするみたいな。
ある種の自分の判断を明け渡すことで、むしろそれによって目的の地点に行くならいいじゃないかっていうことだよね。
この項目について
** 1日5分振り返るだけで人生が劇的に変わります、と。 福尾はそれをコーチングと並べる—— コーチングも具体的なテクニックを授けるのではなく、 とにかく頑張れ、頑張っていないお前はダメだ、と一方的に言われ続ける。 どちらも、内容が全くない単なる形式に従うことに気楽さを感じ、 それで自分が救われたような感じがするという点で、 託されている欲望がめちゃくちゃ似ている。 それは現代の人が生きているきつさを象徴している。 荘子itは「自分の判断を明け渡すことで目的の地点に行くならいいじゃないか、 ということだよね」と言い直す。
この項目が出てくる回
関連項目
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- 1984年は日記の本当のヤバさに届いていないオーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。