1984年は日記の本当のヤバさに届いていない
せんきゅうひゃくはちじゅうよねんはにっきのほんとうのやばさにとどいていない
オーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
番組より
日記の本当のヤバさみたいなものにもリーチしてない感じがして。
ファシズムが恐ろしいのは監視が全部に行き届いてるからヤバいんじゃなくて、行き届かなくても機能することがやばいこと。
この項目について
** それは日記に告白的なイメージを持っているからで—— 日記を書かせるとその人にしかない内面が生まれてしまって管理が達成できない、 という発想。 福尾はそこを二重に否定する。 ファシズムが恐ろしいのは監視が全部に行き届いているからではなく、 行き届かなくても機能することがやばいのだし、 日記は全然告白的なものではない(覚書は告白の逆)。 フーコー的な権力観と、オーウェル的なティピカルな権力観の 裏返しの関係からいろいろ考えられる、と。
この項目が出てくる回
関連項目
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。
- 格調高さと変さが共存しているオリヴェイラ『カニバイシュ』について荘子itが言うこと。
となりで喋られていたこと
韻を踏んでいること
- 文化の盗用はゼロにできないoieiai・アプロプリエーションという語自体はネガティブでもポジティブでもなく、 どこかから持ってきて使うということなのに、 日本語の「盗用」には盗むというネガティブな語が入っている—— その含意のすれ違いもある、と福尾は言う。
- 言語化しようとしていないoieiai・頭が悪いのか何なのか分からないけれど、 自分の人生をそんなに言語化しようとしていない、と没は言う。
- プライベートとパブリックは簡単に線引きできないieiai・日記はプライベートな文章、エッセイや小説や評論はパブリックな文章、と大雑把には分けられる。
- きついと思うかどうかはお前次第eiai・村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』に出てくる格言——Pain is inevitable but suffering is optional。
この項目に言及している項目
- お前がそっちをやってくれているから俺はこっち『ホーリーランド』の作者と『ベルセルク』の作者は中高の同級生で、 かっこつきの現実志向(路上での喧嘩のエピソードを漫画に投入し、 社会学的なアプローチもする)と、 かっこつきの創作の深みにハマっていくスタイル(ずっと漫画を描いていて、 漫画
- カニバイシュたまにしか映画館に行けない夫婦でのタイミングに、 荘子itが選んで一緒に見た映画。
- 権威づけのあり方が決まっている映画研究から出発した福尾が、 スクリーンに背を向けているいちばん大きな理由。
- そのものの対象として見る福尾の卒業論文は、ブニュエル『欲望のあいまいな対象』の分析だった。
- 内容が全くない形式に従う気楽さジャーナリングの本は **「1日1行でいい」「1日5分でいい」と、 短時間ですぐ終わることをめちゃくちゃ推している。
- パルクール感没のソロ作品の、ワンループのサンプリングの上でわさわさラップするだけの曲について。
- 文化祭バンドは3曲で終わった福尾も高校のとき、文化祭のためだけに活動していたバンドをやっていた。
- ペシャンコにされたいブラジリアン柔術を習おうかと思っている、という福尾の動機。
- ホーリーランド荘子itが小学校の頃にすごく好きだった漫画。