2025年6月2日
他律・自律・調律
没のソロ作品から、二人の高校時代のバンドの話へ。10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、というところから、自分の位置をどう図のなかに置くかという話まで。
話の流れ
- 0:00没が作品を出したDos Monos のメンバー。めちゃくちゃいい。
- 3:10福尾もバンドをやっていた収録前の話でそれが分かった。
- 6:21隣のクラスのギターをやっている人当時は庄司くん杉本くんという名前だった。引き合わせられてバンドを組むことになった。
- 9:31マジで3曲そいつの曲はやらなかった。
- 12:4110年ぶりにギターを弾いたら意外とできた一番ダサく感じた時期もあったが、前作『Dos Atmos』と今回でギターを弾いて、ライブでも弾いている。10年触っていなかったのに。
- 53:06その目線で語るのが面白い一つの鉱脈という感じがある。Dos Monos ではブニュエルとデヴィッド・リンチの話を引いた。
- 56:17憧れの先輩だった『ホーリーランド』の作者は学生時代、街中で喧嘩をしていて女の子にもモテていた。
- 1:02:39図全体のなかの自分の位置蓮實重彦や千葉雅也が書いていて、その後手として自分がいる、という図。
- 16:14ぼやっとした上手さにハマる外側が決まっていない人ほど、深さのようなものにハマってしまう。
- 18:37ワンツーだけで路上の伝説になる引きこもりが図書館でボクシングの入門書を手に取って。
- 20:27ペシャンコにされたい強くなりたいというより、手も足も出ない状態を経験してみたい。
- 23:00続けていくんだと自覚し始める年齢村上春樹が朝5時に起きてルーティンをガチガチに決めたのもそれくらいの頃。徹夜パワーに頼っていること自体が甘えなのではないか。
- 27:15残るのは自己を律することカオスの中でひねり出すのを全部経たあとに、それでもまだ人生は50年続いていく。
- 28:431日5分でいいですと推している内容が全くない形式に従うことに気楽さを感じてしまう。
- 31:38菊と刀罪の文化と恥の文化。戦時中のアメリカによる分析なので差別意識もあるが、どちらもあるものだとは分かる。
- 34:22害によって覆い隠されているのは罪千葉雅也のツイート。マナーをお互いに守り合えばなくせるはずだという理想が、罪の問題を見えなくしている。
- 36:38覚書は告白の逆すでに言われていたことを書き写す。フーコー晩年の仕事。
- 37:30シネマトグラフ覚書一冊にまとまると聖典っぽく見えるが、本当は一人の変わり者が書き残したものでしかない。
- 41:40パノプティコンはミームになっている一部の隙もない監視、という意味で使われがちだが、フーコーを読むと逆。
- 44:121984年は日記の本当のヤバさに届いていない日記を書くことが禁止されているのは、日記に告白的なイメージを持っているから。
- 46:30学級崩壊まで一直線実は監視が一切効いていない、と気づいた瞬間に全員がやり出す。どこに境目があったのか。
- 47:50むしろ自己拘束を求める何をしてもよかったからこそ、窮屈なコピーバンドをやりたくなる。
- 49:11カニバイシュを一緒に見に行ったたまにしか行けないタイミングで、ずっとオペラで歌っている映画を選んでしまった。
- 52:55卒論はブニュエル同じ役を二人の女優が演じる映画を、精神分析を取っ払って分析する。
この回で出てきた言葉
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- お前がそっちをやってくれているから俺はこっち『ホーリーランド』の作者と『ベルセルク』の作者は中高の同級生で、 かっこつきの現実志向(路上での喧嘩のエピソードを漫画に投入し、 社会学的なアプローチもする)と、 かっこつきの創作の深みにハマっていくスタイル(ずっと漫画を描いていて、 漫画
- 格調高さと変さが共存しているオリヴェイラ『カニバイシュ』について荘子itが言うこと。
- カニバイシュたまにしか映画館に行けない夫婦でのタイミングに、 荘子itが選んで一緒に見た映画。
- 権威づけのあり方が決まっている映画研究から出発した福尾が、 スクリーンに背を向けているいちばん大きな理由。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- 1984年は日記の本当のヤバさに届いていないオーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
- そのものの対象として見る福尾の卒業論文は、ブニュエル『欲望のあいまいな対象』の分析だった。
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- 内容が全くない形式に従う気楽さジャーナリングの本は **「1日1行でいい」「1日5分でいい」と、 短時間ですぐ終わることをめちゃくちゃ推している。
- パルクール感没のソロ作品の、ワンループのサンプリングの上でわさわさラップするだけの曲について。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- 文化祭バンドは3曲で終わった福尾も高校のとき、文化祭のためだけに活動していたバンドをやっていた。
- ペシャンコにされたいブラジリアン柔術を習おうかと思っている、という福尾の動機。
- ホーリーランド荘子itが小学校の頃にすごく好きだった漫画。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。
この回からの引用
本当なんかパルクール感っていうか。
→ パルクール感
すでにあるものの上で遊ぶっていうのが面白いよね。
→ パルクール感
あれって高校生バンドのなんていうか一個のドヤポイントっていうか。Can't Stopのギターフレーズ弾けるぜっていう。
3曲だけで終わっていったバンドだね。
自分のトラックでは7弦ギター必要だからって7弦ギターを買ってみたいな、必要なものが明確に分かるようになったりとか。
上手さの基準を別にそこで競うわけではなく、音楽に必要なことをやるっていう意味では同列にできる。
なんかすごいぼやっとした上手さとか、なんか深さとかみたいなものにハマっちゃいがちなんだけど、なんか外側が決まってるとやりたいことも明確になるし、変な自己卑下みたいなものに陥らずに済む。
抑圧期間、修行期間ってやっぱ人はそこに陥りがち。どうしてもなっちゃうよね。
ホーリーランドっていう漫画が好きでさ。すごい引きこもりのいじめられっ子の少年が、引きこもりだから暇で図書館でボクシング入門かなんかの本を手に取って、ワンツー、ジャブストレートだけを家でずっと練習してて。
→ ホーリーランド
強くなりたいっていうよりかは、どっちかというとペシャンコにされたいんだよね。
文字通りマウントを取られるみたいな。マウント取ったり取られたりみんなしてるけど、本当にフィジカルにマウントを取られるっていう経験をしてみたい。
内容が全くない単なる形式に従うことにある種の気楽さを感じてしまうとか、それでちょっとある種自分が救われたような感じがするみたいな。
ある種の自分の判断を明け渡すことで、むしろそれによって目的の地点に行くならいいじゃないかっていうことだよね。
その罪の意識と恥の意識によって、その立ち方が異なるっていう視点はすごい面白いと思ってて。
自己を律するようでいて、なんか外側のあれに託してるっていうか、半分は他律的っていうか。
当時のジャーナリング的な実践としてなされてた覚書っていうのは、今まで言われていなかったことをそのノートだけに書くのではなくて、すでに言われてたこと、つまり読書メモだよね。
→ 覚書は告白の逆
告白の逆なんだって言ってて、その告白の逆の実践によって自分を律するとか、自分を道徳的に高めるみたいなことをやろうとした。
→ 覚書は告白の逆
それはやっぱり告白的っていうか、本当の自分みたいなものがあるってことを前提にしてるセラピーみたいなのがコーチングで。
言葉になっていなかった自分の、誰にも見せていない内面を言葉にすることで治癒されるって、究極的には精神分析だからそれって。
隙があるからこそ、こうしないとダメなんじゃないかとか、こうしないと変なふうに思われるんじゃないかっていう風に、いつの間にかその規律が自分の内面に組み込んでくる。
だからこそ、絶対的に監視されてて身動き取れないっていうのよりも、たちが悪いっていう話なのね。
日記の本当のヤバさみたいなものにもリーチしてない感じがして。
ファシズムが恐ろしいのは監視が全部に行き届いてるからヤバいんじゃなくて、行き届かなくても機能することがやばいこと。
むしろそこだけは何かそれに集中してやりたいみたいなのがあるからなのかな。むしろ自己拘束を求めるっていうか。
社会の中でアウトローになるから、完全に別のオルタナティブな規律を自分たちで作り出して、そういう規律を守ってやるみたいな。
カニバイシュって映画が、めっちゃ変な映画でずっとオペラで歌ってんのよ。普通の会話シーンとかもずっと高らかに歌い上げてて。
→ カニバイシュ
なんかその変な格調高さみたいなものもキープされてるから、突き抜け感もないのよ。
なんか意識を超えて自分自身も何かに束縛されてる感じとかとセットで、限りなく自由っていうか変っていうのが好きな感覚があるんだよね。
そういう精神分析的な解釈を全部取っ払って、その2人の女性がいるっていう状態を分析するみたいな、そういう変な論。
あれをそのものの対象として見るみたいな面白さあるよね。深読みじゃなくて。
だからこっちが良くてこっちがダメみたいなのは、なんかそれは全然別の尺度で見たら全然こっちも面白いでしょみたいなことになると思うんだけどね。
お前がそっちやってくれてるから俺はこっちでみたいな、そういうものだからいいんじゃないかなっていう気はするんだよね。
誰を褒めるかとか誰を評価するかとかで、なんか立場がもう全部マッピングされきってるから。
だから権威づけのあり方がもう決まっちゃってるって感じはしたんだよね。その点やっぱ現代美術とかはもう海のものとも山のものともつかないものばっかりだから、そっちの方がなんかやってて楽しい。