格調高さと変さが共存している
かくちょうたかさとへんさがきょうぞんしている
オリヴェイラ『カニバイシュ』について荘子itが言うこと。
番組より
なんかその変な格調高さみたいなものもキープされてるから、突き抜け感もないのよ。
なんか意識を超えて自分自身も何かに束縛されてる感じとかとセットで、限りなく自由っていうか変っていうのが好きな感覚があるんだよね。
この項目について
普通の会話シーンもずっと高らかに歌い上げる超キテレツな映画なのに、 オペラだし、変な格調高さがキープされているから、突き抜け感がない。 オリヴェイラ自身が実際に貴族の生まれで、 ベースにめちゃくちゃ余裕がある。 だからこそ変なことをするときでも、 変な貴族的な格調高さと変さが共存した、よく分からないものになる。 荘子itは自分の趣向がそこに強いと言う—— 「何でも言ったもん勝ちですよ」という世界観とは違う。 自分自身も何かに束縛されている感じとセットで、 限りなく自由というか変であるのが好き。 むしろ自己拘束を求めると同じ形が、好みの側に現れている。
この項目が出てくる回
関連項目
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- 1984年は日記の本当のヤバさに届いていないオーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。