そのものの対象として見る
そのもののたいしょうとしてみる
福尾の卒業論文は、ブニュエル『欲望のあいまいな対象』の分析だった。
番組より
あれをそのものの対象として見るみたいな面白さあるよね。深読みじゃなくて。
そういう精神分析的な解釈を全部取っ払って、その2人の女性がいるっていう状態を分析するみたいな、そういう変な論。
この項目について
同じ役を二人の女優が演じるのを、 精神分析的な解釈を全部取っ払って、 「二人の女性がいる」という状態そのものとして分析するという論。 ブニュエルは本当に精神分析しかされてこなかった作家なので、 平倉圭がゴダールをフォーマリスティックに、マテリアリスティックに見るのと 同じことを、ゴダールではなくブニュエルでやる—— そこが当時の福尾には面白かった。 荘子itも、保坂和志のリンチ論『遠い触覚』が好きだったと言い、 精神分析語りがし甲斐のある人を、そうではない目線で語るのは一つの鉱脈だと受ける。 深読みではなく、そのものの対象として見る面白さ。
この項目が出てくる回
関連項目
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- 1984年は日記の本当のヤバさに届いていないオーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。