権威づけのあり方が決まっている
けんいづけのありかたがきまっている
映画研究から出発した福尾が、 スクリーンに背を向けているいちばん大きな理由。
番組より
だから権威づけのあり方がもう決まっちゃってるって感じはしたんだよね。その点やっぱ現代美術とかはもう海のものとも山のものともつかないものばっかりだから、そっちの方がなんかやってて楽しい。
誰を褒めるかとか誰を評価するかとかで、なんか立場がもう全部マッピングされきってるから。
この項目について
もうゾーニングが決まってしまっているから、触ってもどうにもならない—— 誰を褒めるか、誰を評価するかで、立場が全部マッピングされきっている。 それをひっくり返すこと自体に、自分の人生を使いたいかというと、そうでもない。 『眼がスクリーンになるとき』と同時期に濱口竜介特集への寄稿を断ったのも、 自分が書いて、そこに蓮實重彦や千葉雅也が書いて、 という図全体が分かりきってしまっている感じがしたから。 その点、現代美術は海のものとも山のものともつかないものばかりだから、 やっていて楽しい。 荘子itは「東浩紀が『文系はもうコネと権威だけの世界だ』と言っていたが、 本当にそこはある」と受ける。
この項目が出てくる回
関連項目
- 罪の意識と恥の意識をセットで考える罪の意識と恥の意識によって、自分の立ち方が異なる——その視点がすごく面白い、と荘子itは言う。
- コーチングは告白的である寝っ転がってスマホばかり見て、なんなんだお前は、と言うのがコーチングだが、それはやはり告白的だ、と福尾は言う。
- 必要なものが明確に分かる10年ぶりにギターを引っ張り出したら意外と弾けた、という話から。
- ぼやっとした上手さにハマる必要なものが明確に分かるの裏返しとして福尾が言うこと。
- 覚書は告白の逆フーコー晩年の仕事として福尾が説明する。
- 隙があるからこそ規律を内面化するパノプティコンはほとんどミームになっていて、 一部の隙もない監視の網の目という意味で使われがちだが、 フーコーのテキストを読んで面白いのは逆だ、と福尾は言う。
- 1984年は日記の本当のヤバさに届いていないオーウェル『1984年』では**日記を書くことが禁止されている。
- むしろ自己拘束を求める学校の授業で何をしてもよかったからこそ、 むしろバンドをやりたくなったのではないか、と荘子itは言う。