実空間を記述するからこそフィクションになる
じつくうかんをきじゅつするからこそふぃくしょんになる
疎な記述をしようとすると、小説でいう視点人物のような架空の人格が勝手に立ち上がる、と福尾。
番組より
架空の語り手の視点みたいなものがどうしても出てくるっていう、小説でいう視点人物みたいなものの架空の人格みたいなものが勝手に立ち上がるっていうのが、すごい面白いなと思って。
実空間を記述するからこそ、それを批評してる文章がフィクションになるっていう、そのなんか反転がすごい、なんかめっちゃおもろいなと思うんだよね。
この項目について
インスタレーションアートは歩き回って見るものだから、「一通り見た」のあり方が鑑賞者ごとに違い、鑑賞経験はどうしても主観的になる。それを批評するとき、自分の経験に忠実に記述しているかというとそうではなく、取捨選択も、その場で考えていなかったことをその場で考えたかのように書くことも含めて、何らかの編集が働く。記述の対象が現実の実空間であるからこそ、その文章の内容がフィクション的なものになる——という逆説。逆に、小説や漫画のようにストーリーやキャラクターだけを情報として扱える対象だと、語り手の主体が書き手とイコールで固定されてしまう。
この項目が出てくる回
関連項目
- まずは親密な場で沖縄でのイベントの話から。
- 記述には変なレバレッジが効いている有名な場所のことなら、細かく記述しなくても分かるかもしれない。
- 疎なデータから立ち上がるもの自分自身の経験と、日記に残っていくデータとのあいだには情報量のギャップがある。
- くぐった後の感覚の変容が保証されている沖縄のアブチラガマに入った話。
- 一人の人間が持ってるバイブスなんて所詮それほど幅がない福尾が京都で15年ぶりに高校の同級生と会った話。
- マイナーだから記述せざるを得ない庭師でもあり研究者でもある山内朋樹とのトークから。
- 記述する力という第三の力三宅香帆が言っていたこと——芸人やアーティストはエピソードトークが面白く、批評家は絶対に敵わないから、起きたことではなく解釈の話をすべきだ。
- Watsonラッパー。