意味より強度、の使われ方
いみよりきょうどのつかわれかた
宮台真司ですらドゥルーズを参照して「意味より強度」と言うが、それは物語なんか信じないで情動と溢れんばかりのものにまみれようぜという、ある種ドパガキ的で30代的な物語でもある、と荘子it。
番組より
一時期のドゥルーズもそれこそドパガキ的というか、とにかく強い情動を自分の中に喚起されるするものと出会いまくるのが良しみたいな感じだったんだけど、それとは全然違うものが全然ドゥルーズの中にもいっぱいありますよって話をしてるのが非美学だから。
そっから一歩こうステップバックして、でも自分はアーティストじゃないし、自分は哲学者で、アーティストがやるべきことと哲学者がやるべきことって違うよねみたいなところに返ってくるのが、晩年の『哲学とは何か』っていう本みたいな。
この項目について
福尾によれば、一時期のドゥルーズにも確かに「とにかく強い情動を自分の中に喚起するものと出会いまくるのが良し」というモーメントはあった。けれど全部が強度的・情動的なものに巻き込まれていくのがいいんだ、という筋は結局「そういうものを体現している芸術が偉い」に着地してしまう。そこから一歩ステップバックして、自分はアーティストではなく哲学者で、アーティストがやるべきことと哲学者がやるべきことは違う、というところに返ってくるのが晩年の『哲学とは何か』——その筋書きで非美学は書かれている。それでもドゥルーズは、いまだに前段のタイプの読まれ方をされることが多い。
この項目が出てくる回
関連項目
- 過保護と放課後村上春樹をめぐる言説を見ても、売り方としてパッケージングされた通りの消費のされ方しかしていない感じがして、それは寂しい——という福尾の話に、「過保護だと」「じゃあ密の次は過保護」と名前が付く。
- 消費のされ方でコンテンツを分けるドパガキ的な分け方は、消費のされ方でコンテンツを分けている——それは結構不思議なことで、実はあまり今までなかったのではないか、と福尾は言う。
- 道徳的に滅菌された状態で消費されているダナ・ハラウェイの受け取られ方について福尾が言うこと。
- 制度的にはそうなりました荘子itがこの回で離婚を報告する。
- アドマチックドパガキの対義語はセロトニンおじさんではなくアドマチであってほしい、と福尾が言い出す。
- 他者の魂を信じるための装置自分以外にも他者がいるということを信じる感覚は、アドマチックで生成される、と荘子itは言う。
- 誰も薬の話をしないケアや精神分析の2020年代的な消費のされ方を見ていて不思議なのは、誰も薬の話をしないことだ、と福尾。
- 家ではなく街に住んでいる家が一回なくなっても外側に街があるのは素晴らしいことだ、という荘子itの実感に、福尾が書きかけのエッセイを重ねる。