2026年7月20日
過保護と放課後
カレーの話から、コンテンツを情動で分類するということ、他者の魂を信じるための装置としての作品へ。中盤で荘子itが離婚の報告をする。終盤、消費のされ方が売り方の通りにパッケージされていることを「過保護」と呼び、その対に「放課後」を置く。
話の流れ
- 0:09まだ若干鼻声風邪で収録を遅らせてもらった翌週。今出してみると分かる? これ。
- 1:50お土産っぽい柄の、お土産じゃないTシャツ好きなブランドが毎年出しているTシャツ。英語で何か書いてある。
- 3:45数ヶ月かかる仕事を同じペースで続けるここからやっと次の本に腰を据えられる。
- 7:28日本風カレー洋風ではない、本当に日本風のカレー。ずっと超うまいと言われていた店。
- 9:20権威的な世界だな金額も行列も圧倒的で、人望のようなところから言ってやはり権威的な世界だと感じる。
- 11:10血と暴力と政治が抽象化されているマンダラのように全てが描かれている。そこは絶対に読んだほうがいい。
- 14:52移民の店二人で行った店。いろんなアジアの国から来た人たちの。
- 16:44昼寝すらも総かり立てするスタイルではなく午後しゃっきりするために15分昼寝するといい、というビジネスマン的なものではなく。カレーを食うと眠くなるし、寝てもいいから寝る。
- 18:34アド街ック天国はもう終わっている町を扱う番組の話。疎の街も街だしね。
- 24:10消費のされ方でコンテンツを分けるドパガキ的な分け方は、コンテンツが喚起する情動によってコンテンツを分類している。20世紀的なジャンルとは全然違う。
- 26:02ファクターX深みが出るかどうか、魂のようなもの。そこがもう全くなくていい、という話になってしまう。
- 29:45物語批判の揺り戻し物語を批判して、また結局物語じゃんという揺り戻しが来る。それがまだ新鮮なことのように言われる。
- 31:37トーキングセラピー精神分析は要するに言葉で治すことで、喋っていればなんとかなる的な感じ。その棲み分けが不思議だ。
- 35:19他者の魂を信じる作品というものの価値を信じる、人と人の繋がりの価値を信じる。ファクターXによってそれを可能にする、ある種のイデオロギー。
- 37:10宗教的な肯定と道楽的な肯定その違いのような気がする。
- 40:55うつせみとの合同初ライブDos Monos の前にやっていたクルー。実家で合同の初ライブをやった。
- 42:11制度的にはそうなりました荘子itの報告。今まで通りのところは今まで通りだけれど、一応、制度的には。言う場としてふさわしいのはこの番組だろうと思った。
- 44:36周りでも多い結婚している友人にもそういうことがちらほらあり、という感じが続いていた。今年に入ってからも多い。
- 45:02仮面の告白状態普段は口に出ないペルソナが出てきてしまっている。もうちょっと打ち解けたほうがいい。
- 45:16前向きな選択だと思っている寂しい思いはしているが、今後のためにはお互いにとっていいことだろうと。制度上関係なくなるだけで、親子関係は絶対に消えない。
- 51:10鳥飼さんとの対談2回離婚して、その経験をもとにエッセイ本を出した漫画家。結婚についての話をした。有料のアーカイブ販売だけだったが、買った人が全員2回見ていた。
- 55:49噛み合わないところは必ずある制度的に離婚するかどうかとは別に、あらゆる夫婦にどこかしら噛み合わないところはある。それが制度的な話に行くかどうかは程度の違いのような気もする。
- 56:50未だに残っている謎のシステム結婚制度についてはいろいろ言われる。それによって生まれているドラマも数多いだろう。
- 1:05:13回転寿司も閉められるうまくいっている証拠かもしれない。いろんな状況の方がいるでしょうけど、調子よくやっていきましょうと。
- 1:08:57コメントを拾う前回の昼ご飯の話への反応から。これもある種、町の話ではある。
- 1:10:53内容と形式の一致リスナーからの感想。『急に具合が悪くなる』でも実践されていること。キャラクターへの過保護という評も当てはまる気がする。
- 1:14:34VARで拾ってくるという判断自体ワールドカップの話。ある種恣意的に、ここではVARで判定しますと決めて判定する。
- 1:18:16大盛りは110円メニューに大盛り分だけの項目はないから、頼み直すしかない。ルールに基づけば普通に違反になる。
- 1:20:08理想論に聞こえてしまう長期的には労働環境としても良くなる、と言われても、現場の問題があって理想論に聞こえる。
- 1:23:53お袋の味のイメージを売る温かさのイメージを売るということは、違うことのようで同じことだったりもする。
- 1:25:43道徳的に滅菌された状態で消費されているダナ・ハラウェイの受け取られ方について。誰もそこの欺瞞をつつかない。
- 1:29:27批評が発明できていない商業作品は普通の一般道徳に沿うのだから、そこで可能な肯定を発明する仕事があるはずだ。
- 1:32:29密の次は過保護、過保護に対して放課後パッケージされた通りの消費のされ方しかしていないことを過保護と呼び、その対概念として放課後を置く。
- 1:35:08これから横浜へオフィスマウンテンを見に行く。
- 17:13ドパガキの対義語セロトニンおじさんではなくアドマチだったらいいなと思って。
- 31:01誰も薬の話をしない音楽を語るときはめっちゃセロトニンだドーパミンだと言うのに。
- 1:16:30VARで拾ってくるという判断自体は人間的本来だったら流されていたような小さいファウルを。
- 1:27:47出口を作品に与える道徳的な良さに回収する以外の回路が、批評の側でできなくなっている。
この回で出てきた言葉
- アドマチックドパガキの対義語はセロトニンおじさんではなくアドマチであってほしい、と福尾が言い出す。
- アドラブルアドマチックの語感から。
- 家ではなく街に住んでいる家が一回なくなっても外側に街があるのは素晴らしいことだ、という荘子itの実感に、福尾が書きかけのエッセイを重ねる。
- 意味より強度、の使われ方宮台真司ですらドゥルーズを参照して「意味より強度」と言うが、それは物語なんか信じないで情動と溢れんばかりのものにまみれようぜという、ある種ドパガキ的で30代的な物語でもある、と荘子it。
- インドでは警備員も寝ている福尾が黒嵜想・大和田俊と3人でインドに3週間いたときの話。
- 嘘喰い荘子itと岩崎が共通して好きな漫画。
- 海辺のカフカ『カホ』からの流れで福尾が10年ぶりに読み返した。
- AとCの関係はAとCだけで変わらない離婚の報告のあとで福尾が言う。
- 過保護と放課後村上春樹をめぐる言説を見ても、売り方としてパッケージングされた通りの消費のされ方しかしていない感じがして、それは寂しい——という福尾の話に、「過保護だと」「じゃあ密の次は過保護」と名前が付く。
- サイボーグ宣言ダナ・ハラウェイの文章。
- 消費のされ方でコンテンツを分けるドパガキ的な分け方は、消費のされ方でコンテンツを分けている——それは結構不思議なことで、実はあまり今までなかったのではないか、と福尾は言う。
- 神保町まんてんのカレー監督の岩崎のソウルフードで、出会って10年、幻の存在だったのについに一緒に行けた店。
- 制度的にはそうなりました荘子itがこの回で離婚を報告する。
- 総駆り立て体制ではない昼寝インドでは警備員が木陰で寝ている。
- 他者の魂を信じるための装置自分以外にも他者がいるということを信じる感覚は、アドマチックで生成される、と荘子itは言う。
- ダナ・ハラウェイ道徳的に滅菌された状態で消費されているの例として出てくる。
- 誰も薬の話をしないケアや精神分析の2020年代的な消費のされ方を見ていて不思議なのは、誰も薬の話をしないことだ、と福尾。
- 出口そのものを作る批評が対象作品を価値づけるための回路が、めっちゃ少ない——すでに共有されている道徳的な良さに回収するしかできない、と福尾。
- 道徳的に滅菌された状態で消費されているダナ・ハラウェイの受け取られ方について福尾が言うこと。
- 間違いがなくなることによって悪意が伝わるワールドカップのVARの話から。
この回で触れられた項目
この回からの引用
下から増量されてんじゃないかみたいな、ずっと満杯の状態でなんか入れ続けてるみたいな、夢を見させられてる感じっていうか、これで一生生きていけるんじゃないかみたいな。
インドはさみんなそういうリズムで生きてるから、普通になんか警備員とかがちょっと木陰で寝てたりする。
ビジネスマン的な、より午後しゃっきりするために実は15分昼寝するといいのですみたいな、昼寝すらも総駆り立てするスタイルではなく、本当にカレーを食うと眠くなるし、寝てもいいから寝るみたいな、そういう良さがあるね。
ドパガキの対義語がセロトニンおじさんじゃなくて、アドマチだったらいいなと思って。
→ アドマチック
ドーパミンガキもセロトニンおじさんも、自分がドーパミンを得たとか、自分がセロトニンを得たってことしか究極視野にない。街はでもその受け取るための関係の網の目、まさに関係性自体の街なわけだから。
→ アドマチック
いろんな話を含めてさ、自分以外にも他者がいるんだみたいなことを信じる感覚は、やっぱアドマチックで生成されるね。
つまりドパガキ的な分け方ってさ、消費のされ方でコンテンツを分けてるわけじゃん。それって結構不思議なことだと思う。
そのコンテンツが喚起する情動によってコンテンツを分類するみたいな。それは20世紀的な意味でのジャンルみたいなものとは全然違うわけだよね。
一時期のドゥルーズもそれこそドパガキ的というか、とにかく強い情動を自分の中に喚起されるするものと出会いまくるのが良しみたいな感じだったんだけど、それとは全然違うものが全然ドゥルーズの中にもいっぱいありますよって話をしてるのが非美学だから。
そっから一歩こうステップバックして、でも自分はアーティストじゃないし、自分は哲学者で、アーティストがやるべきことと哲学者がやるべきことって違うよねみたいなところに返ってくるのが、晩年の『哲学とは何か』っていう本みたいな。
誰も薬の話しないの。斎藤環さんもそうだし松本卓也さんもそうだし。めっちゃざっくりケアをひらく的な文脈の中で薬の話って全然されなくて。
実際医療の現場では薬で治すのがメインのはずなんだよ。でも人文書っぽい精神医学寄りのものを読んでると、誰ももはや薬を処方してない世界みたいなものがあるような気がしちゃうんだよね。
作品っていうものの価値を信じるとか、人と人の繋がりっていうものの価値を信じるっていうファクターXによって他者の魂を信じるみたいな方向性の、ある種のイデオロギーによって、そういうことを可能にする、幸せな感情を可能にすることもできるし、ドラッグ的なものでそれを可能にしていく方向もあるみたいな話で。
今まで通りのところは今まで通りだけど、一応ね、一応っていうことで、制度的にはそうなりましたので。
大っぴらに言いまくりたいわけでもないけど、でも別に言わないとそれもそれで前提違う感じの印象を与えるというか、俺自身もなんかもやもやするから、言っておこうと。その場にふさわしいのは嫉妬としっぽだろうと。
今日かなりやっぱあれだね、俺やっぱ人格作ってるなこれ。普段口に出ないような何かペルソナが出てきてしまってるなこれ。ちょっと仮面の告白状態になってきてるから、もうちょい打ち解けた方がいいな。
別にただ制度上関係なくなるだけでも子供もいるわけだしね。家族っていう言葉じゃないのかもしれないけど、いい付き合いはしていきたいよ。少なくとも親子関係は絶対に消えないしね。
密な空間だったらAとBの関係が変わることによってAとCの関係も変わっちゃうみたいな。でもAとBの関係がどうなろうと、AとCの関係はAとCだけで一緒みたいな、そのなんか抜けの良さみたいなものがあった方がいいと思うから。
制度的に離婚するかどうかとは別にさ、やっぱあらゆる夫婦にさ、どっかしら噛み合わないところってあるからさ。それが結果として制度的な離婚どうこうの話に行くかどうかみたいな、程度の違いみたいな感じもするけどね。
家に住んでるんじゃなくて街に住んでるんだって話をどうにかこうにかしようとしてるんだよね。
無関心層99%の世界っていうかさ。本来はそうだよね。それはだから一つも、もちろん悲しさであるっていう、だから人は結婚とかしたいわけだよね。
別にそんなのシネフィル的な引用とかではなくて、なんか現にもそれが到来してるっていう感じっていうか、映画の歴史の中でみたいな感覚をね。信仰ですね、これは。
→ 濱口竜介
間違いがなくなることによって、それを選んだ人間の悪意みたいなものがめっちゃダイレクトに伝わってきちゃうことのきつさみたいな。
やっぱり大盛り分の110円でもらっていいっすかっていうのを軽率にやってる人生だから、そういう意味からやっぱり全面QR化にちょっと反対。
ダナ・ハラウェイってほぼなんかね、めっちゃ道徳的に滅菌された状態で消費されてるの。
そこは誰もつつかないんだよね。そこの欺瞞みたいなものがすごい僕はなんか、なんでそれでOKってことになってんのみたいな感じになって。
批評がさやっぱり最終的に、その論述する対象の作品を価値づけるための回路がめっちゃ少ないっていう話だと思うんだよね。なんかすでに共有されてる道徳的な良さに回収するしかできないみたいな。
そのものの出口を作るみたいな、出口そのものを作るみたいなのは、なかなかあんまりない。
その中でできる肯定っていうことするんじゃなくて、信仰が崩壊した後の世界の出口の方のことがね、本当は言うべきことでもあるんだと。
売り方としてパッケージングされた通りの消費のされ方しかしてない感じがして、それはなんか寂しいけどね。過保護だと。
→ 過保護と放課後
過保護に対して放課後ってさ、結構対応がついてないんじゃない。放課後だよでも本当。Dos Monosだってもうマジで放課後的なもので生成されてるし。
→ 過保護と放課後
とはいえの領域があるんだと、そこに。
→ 過保護と放課後