本音を言ったことになるための手続き
ほんねをいったことになるためのてつづき
「そういう形式にしまわないと本音を言ったことにならない」ことの強引さのほうが 気になる、と福尾は言う。
番組より
それぞれの社会の中で本音とされるまでにいろんな手続きがありますよねみたいな、内容より形式見た方が面白いですよねっていうのが、めっちゃざっくり言うとフーコーのパレーシア論だったと思うんだけど。
この項目について
それこそフーコーのパレーシア論が そういう話だった—— 古代ギリシャならこういう手続きを踏んでこう言えば本音を言ったことになったし、 近代なら精神分析のカウチに寝そべって自由連想で喋れば その人の真理が出てきたことになる。 そのどれが本当の真理を語っているかよりも、 それぞれの社会の中で本音とされるまでにいろいろな手続きがあること、 つまり内容より形式を見たほうが面白い。 では今の社会では、何をすれば本音を喋ったっぽい感じが生まれるのか。 かつては夜に酔っ払って居酒屋でくだを巻くのが本音のイメージだったが、 いまは昼に喫茶店でお茶をしながら喋ることのほうへ寄ってきている。 なぜこう変わるのか、というのがこの回の核にある問い。 お気持ちと実感(本音とされるもののゾーンがあらかじめ決まっている)と 同じ問題を、形式の側から見たもの。
この項目が出てくる回
関連項目
- 標準語のタメ口で疑問文が言えない福尾が前々からずっと気になっていること。
- グルーミングのなさグルーミングは今でこそセクハラ・パワハラの温床である「飼いならし」のイメージが 一般化しているが、もともとは毛づくろいの意味で、大事なものとして使われていた。
- 逆張り性と熱狂の悪魔合体逆張り的でアイロニカルな感性でやりながら、同時にそれで人が本当にぶち上がってしまう。
- 芸術は立場をはぐらかしながらにじり寄れる現実では「リベラルとかどうでもいいから男磨きしよう」か 「そういうのは全部時代遅れだから批判していこう」のどちらかのポジションを 取らされてしまう。
- 躁でも鬱でもなく平熱「人の欲望に手を突っ込むな」という福尾の言葉がツイートとして伸びたことについて、 荘子itは「対立せずにこの微妙な塩梅で考えよう、ということを言っているんだと思う」 と読む。
- 非対称性の保存現に存在する暴力を、芸術はある意味で別の形に保存する。
- 反実現Gilles Deleuze は芸術をパントマイムになぞらえて語る。
- 男子校的コミュニケーションの感覚の歪み荘子itが東浩紀の髪について「ハゲ散らかした」と言ったことを、 福尾が休憩中に「言葉としてそういう表現をするのはいかがなものか」と指摘し、 荘子itが放送に戻ってから訂正する場面。