置き配的コミュニケーション
おきはいてきこみゅにけーしょん
福尾がこの回で与えた、本のいちばん短い定義。
番組より
置き配的コミュニケーションって何かって一言で言うと、メッセージの伝達より、メタデータの共有が優先されるようなコミュニケーションのことを置き配的って呼んでて。
相手が男性であるか女性であるかとか、社会的な強者であるか弱者であるかとか、そういう属性とか立場とかをメタデータとして扱って、言葉の内容じゃなくて、そのメタデータのレッテルの貼り合いみたいなものが政治的な言論だと思い込まれてるんだけど、それって言論じゃないでしょっていう。
この項目について
「メッセージの伝達より、メタデータの共有が優先されるようなコミュニケーション」。物を手渡したから届いたことが確定するのではなく、物をドアの前に置いて、その写真を撮って共有することで「届いた」ことになる——それは全然違うことだ。この語はいまの言論状況にもそのまま効く。相手が男性か女性か、社会的な強者か弱者かといった属性・立場をメタデータとして扱い、言葉の内容ではなくそのレッテルの貼り合いをすることが政治的な言論だと思い込まれている。だがそれは言論ではない。荘子itは、引用リポストやスクショを自分の陣地に持ち帰って「あいつやばいぞ」と流布し合う喧嘩の形——町山智浩と東浩紀のような——を、置き配の写真を撮って持ち帰り「はい届けましたよ」と示すことと重ねる。本当の接触がそこで起きていない。なお『置き配的』は基本的にネガティブな概念で、それをポジティブに捉え直そうとするとおかしなことになる。「いろいろ問題があるけどそういうものです、そのうえで何ができるか」という本。
この項目が出てくる回
関連項目
- 空間の中にプラットフォームがある置き配というシステムそのものより、それによって「空間というものがないことになってしまう」ことが一番の問題だ、と福尾は言う。
- 空間の話をしない空間的なものの話はするのに、空間の話はしない——それが日本の思想や批評のすごく大きな弱点だ、と福尾はずっと思っている。
- ドパガキ「ドーパミン中毒のガキのための音楽」の略。
- 一周目おじさんDos Monos内で一時期流行ったミーム。
- 小説は報告から始めるべきでは上野の国際子ども図書館で手に取った石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』は、一文目からノンちゃんを紹介している。
- コンスタティヴとパフォーマティヴ「あいつの言ってることはパフォーマンスで」というときのパフォーマンスと、言語行為論のパフォーマティヴは違う、という話。
- ラッセン本の無断参照問題ラッセンをテーマにしたフィクションの小説が、明らかに『ラッセンとは何だったのか?』(千葉雅也らが寄稿した評論本)を種本にしているのに、参考文献に挙げていないとして問題になった。
- 小島大大荘子itと同世代のMV監督。