2025年11月3日
ドパガキと1周目おじさん
Dos Monos新曲「バーン」がミニマルな構成である理由から「ドパガキの音楽」へ。 『ワン・バトル・アフター・アナザー』への違和感、そして「一周目おじさん」を 引き受けざるを得ない自分について。後半は「小説はもう一度報告から始めるべきでは」。
話の流れ
- 1:00ドパガキの音楽ドーパミン中毒のガキのための音楽。展開がコロコロ変わって理論を無視し、ザッピング的に快楽を与える。Dos Monosにもその側面はあるが、ミニマルでもドス印は出せると示したかった。
- 4:00リリックで仲間をディスるメンバーにバレないようにリリックで他のメンバーをディスっていることが本当にある。数年後にライブのかぶせで「これ俺のこと?」と発覚する。
- 4:40ワン・バトル・アフター・アナザーへの違和感福尾は「ど真ん中セクシズムじゃないか」と怒る。女性革命家が都合よく退場し、最後は母としての自覚を獲得したことになっている。その間の葛藤が描かれない。
- 10:20火の花同世代のMV監督・小島大大の映画。南スーダンに派遣された自衛隊員のPTSDと隠蔽。左右で分裂しかねないテーマなのに、誰もが見て話し始められる形でエンタメとして作られている。
- 19:20一周目おじさんDos Monos内で一時期流行ったミーム。『宝島』も『火の花』もオーソドックスな作劇なのに、いまはそれが普通にいいと思ってしまう。三周目にして一周目に戻る。
- 25:00宝島とブラックフェイス問題顔を浅黒くして沖縄のキャラクターを演じることには問題もあるが、顔なじみの俳優が演じることで浸透させるという選択もあるのかもしれない。
- 27:00同じ手法では同じものになるゴダールは、イデオロギーに反対するときに反対のイデオロギーを同じ手法でやったら同じことだ、と繰り返し言った。作り方自体を発明しない限り対立は成立しない。
- 29:00小説は報告から始めるべきでは石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』は一文目からノンちゃんを紹介している。報告というスタンスは読者に「読者というロール」を与える。小説の洗練はそれを省くこととトレードオフだった。
- 35:40ラッセン本の無断参照問題ラッセンをテーマにした小説が『ラッセンとは何だったのか?』を種本にしながら参考文献に挙げていない。フィクションの読者に当てている限り「読んでいません」で通せてしまう。
- 47:00置き配的コミュニケーションメッセージの伝達より、メタデータの共有が優先されるコミュニケーション。物を渡したからではなく、置いて写真を撮って共有することで「届いた」ことになる。
- 49:22レッテルの貼り合いが言論だと思われている相手が男性か女性か、強者か弱者かといった属性をメタデータとして扱い、言葉の内容ではなくそのレッテルを貼り合うことが政治的言論だと思い込まれている。
- 50:44空間の中にプラットフォームがある置き配的なシステムは空間を点と線の運動に還元してしまう。だがプラットフォームの中に空間があるのではなく、空間の中にプラットフォームがある。
- 54:06空間の話をしない空間的なものの話はするのに、空間の話はしない。それが日本の思想・批評のすごく大きな弱点なのではないか。
- 57:35非美学の星1レビュー内容と関係ないところでディスられ、Amazonレビューが星1だらけになった。自分からも悪いバイブスが出ていたと思う。この番組が始まってから、いい方向に回り出した気がする。
この回で出てきた言葉
- 一周目おじさんDos Monos内で一時期流行ったミーム。
- 置き配的コミュニケーション福尾がこの回で与えた、本のいちばん短い定義。
- 空間の中にプラットフォームがある置き配というシステムそのものより、それによって 「空間というものがないことになってしまう」ことが一番の問題だ、と福尾は言う。
- 空間の話をしない空間的なものの話はするのに、空間の話はしない——それが日本の思想や批評の すごく大きな弱点だ、と福尾はずっと思っている。
- 小島大大荘子itと同世代のMV監督。
- 小説は報告から始めるべきでは上野の国際子ども図書館で手に取った石井桃子『ノンちゃん雲に乗る』は、 一文目からノンちゃんを紹介している。
- 宝島沖縄のコザ暴動を描いた映画。
- ドパガキ「ドーパミン中毒のガキのための音楽」の略。
- Burnバースとフックという分かりやすい構成のミニマルな曲。
- 火の花南スーダンに派遣された元自衛隊員が、実際に起きた戦闘とその隠蔽を抱えて帰国し、 PTSDで工事現場を追われて花火職人に弟子入りする。
- 非美学の星1レビュー『非美学』のAmazonレビューは星1だらけで、 「こんなに星1がついてる本、他にあんまりないぞ」というくらい。
- ラッセン本の無断参照問題ラッセンをテーマにしたフィクションの小説が、明らかに『ラッセンとは何だったのか?』 (千葉雅也らが寄稿した評論本)を種本にしているのに、参考文献に挙げていないとして 問題になった。
この回からの引用
ドーパミン中毒のガキのための音楽みたいな言い方があるんだけど、展開がコロコロコロコロ変わって、音楽理論的なことは本当に全無視でガンガンいろんなことをやるみたいな。
→ ドパガキ
みたいな一周目おじさんになってきてる。一周目おじさんを引き受けざるを得ない。
→ 一周目おじさん
報告っていうスタンスを著者とか語り手が取るっていうのは、結構小説にとってめっちゃ大事なんじゃないかなと思って。つまり報告って何をするかっていうと、読者に読者っていうロールを与えるっていうことだと思うんだけど。
置き配的コミュニケーションって何かって一言で言うと、メッセージの伝達より、メタデータの共有が優先されるようなコミュニケーションのことを置き配的って呼んでて。
相手が男性であるか女性であるかとか、社会的な強者であるか弱者であるかとか、そういう属性とか立場とかをメタデータとして扱って、言葉の内容じゃなくて、そのメタデータのレッテルの貼り合いみたいなものが政治的な言論だと思い込まれてるんだけど、それって言論じゃないでしょっていう。
だからプラットフォームの中に空間があるんじゃなくって、空間の中にプラットフォームがあるんですよっていう。めっちゃ当たり前のことなんだけど、めっちゃ当たり前のことが自覚しづらくなってる。
空間的なものの話はするんだけど、空間の話はしないみたいなことが、僕はすごい日本の思想とか批評のめっちゃ大きな弱点だなってずっと思ってて。
→ 空間の話をしない