解説に見えてしまう本
かいせつにみえてしまうほん
『眼がスクリーンになるとき』を丁寧に読んだ高校生から「『シネマ』に書かれてあることと福尾さんの主張の違いがよく分からない、解説に終始していて福尾さんの思想がどこにあるのか分からなかった」というツイートがあった。
リテラリティを掲げている以上、あたかもドゥルーズがもともとそう言っていたかのような形で文章が進んでいくしかない。だから解説に見えるが、内容はこれまでのドゥルーズ研究とは全然違う。「実はだいぶ違うんだぞ」と言うこと自体が構造上できない、というジレンマがある。蓮實重彦や廣瀬純のような映画好きが否定的な反応をするのも、ある意味必然(「だって映画の話してないんだもんね」)。
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関連項目
- 点はてな「?」の前に読点を1つ打つ用法。
- リテラリティ福尾匠『眼がスクリーンになるとき』の重要概念。
- 動物という通路黒沢清の映画では、人間の世界と「やばいもの」の世界のあいだの通路として動物が機能する。
- 鑑賞料金FXシステム勧める者と勧められた者の関係、そして映画をいつ観るかという時差の問題。
- 葉っぱの影が白いシャツの上を流れたWilliam Faulkner『八月の光』でいちばん印象に残っている描写、と福尾は言う。
- 脳の容量の取り合い同棲を始めたころ、福尾は「めっちゃいろいろ聞かれるな」と負担に感じていた。
- 二人で一個の脳を使っている福尾夫婦は二人とも家にいる時間が長く、二人だけで過ごす時間がめちゃくちゃ長い。
- PTAからの卒業中学2、3年で『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観て「これ来た、超かっけえ」となり、以来ずっとPaul Thomas Andersonが好きだという自意識で来た荘子itが、『ワン・バトル・アフター・アナザー』にハマれず「俺、そんなにPTA好