哲学の側に何かがもたらされるなら嬉しい
てつがくのがわになにかがもたらされるならうれしい
蓮實重彥にあるのはある種の負けの美学だ、と福尾。
番組より
映画と哲学ってそもそも別だよね、そもそも違うんだけど、でも哲学が映画と出会って哲学の側に何か新しいことがもたらされるんだったら、それはそれで嬉しいよねって、ある種めっちゃドライな態度だと思うんだけど。
この項目について
映画論が映画そのものに追いつけるはずがないという前提があり、だからこそシネフィル的な映画愛を持つ。対してドゥルーズは全然シネフィルではない——映画と哲学はそもそも別のものだが、哲学が映画と出会って哲学の側に何か新しいことがもたらされるならそれはそれで嬉しいよね、というめっちゃドライな態度。福尾はその態度が東浩紀にも引き継がれていると見る。蓮實的に言えば、『シネマ』という本よりプレストン・スタージェスの一本のコメディ映画の方が価値がある、ということになる——荘子itは「どっちも分かる」と言う。
この項目が出てくる回
関連項目
- しないこともできる状態にいられるのが能力『置き配的』の原型になった文章で、隠喩と換喩の話をずっとしたあと、いろいろすっ飛ばして出てくる話。
- 存在より前に政治があるドゥルーズを語っていて出てくる一句。
- 批評は社会保障のようなもの東浩紀がインタビューで「批評とは何か」と訊かれて、社会保障みたいなものだと答えていたのが良かった、と荘子itは言う。
- 5年前のことも考古学ができるなぜ歴史学ではなく考古学と言うのか。
- ほっとくとこうなる収録前に、荘子itが2019年の『文芸』冬号に書いた文章が発掘された。
- 最後の平和ボケ2019年と2020年でトーンが変わった、という話。
- 上半身と下半身で別のゲームを同時にやる『群像』での東浩紀との対談を振り返って。
- 情報量としてはゼロなのに何かを言ったことになる存在より前に政治があるの実例として、福尾が高市早苗の国会答弁を挙げる。