しないこともできる状態にいられるのが能力
しないこともできるじょうたいにいられるのがのうりょく
『置き配的』の原型になった文章で、隠喩と換喩の話をずっとしたあと、いろいろすっ飛ばして出てくる話。
番組より
そもそも何かができるっていう状態がやばいんだみたいなことを言っていて、つまりpossibleっていうのはパッサブル。何かができるってことはパスできるってことなんだ。
可能性能力って何のためにあるかっていうと、何かを選択するためにあるんじゃなくて、しないこともできることがバラバラある状態にいることができるのが本当の能力だから。
密な状態と疎な状態だとやっぱり疎な状態がいいとされてるのは、やっぱり密だと単純にエネルギーばっかり食ってる状態になってややこしい。
この項目について
possible は passable である——何かができるということは、それをしなくてもよいということでもある。お茶が飲める状態にあるということは、飲まないこともできるということだ。できることが選択肢として与えられているとして、実際にそれを行為に移す割合はめちゃくちゃ少ないはずで、そう考えると可能性や能力は何かを選択するためにあるのではなく、しないこともできることがバラバラある状態にいられることこそが本当の能力なのではないか。その「ある種冷めたあり方」が『置き配的』では疎という概念になった。密にフル稼働ではなく、疎でこなせる。荘子itは脳の神経発火の話を重ねる——密だとエネルギーばかり食う状態になり、全体の数パーセントのニューロンしか使わないほうが効率がいいとされている。さらに東浩紀『平和と愚かさ』の、考えないでよくなる状態とも繋がる。
この項目が出てくる回
関連項目
- 存在より前に政治があるドゥルーズを語っていて出てくる一句。
- 批評は社会保障のようなもの東浩紀がインタビューで「批評とは何か」と訊かれて、社会保障みたいなものだと答えていたのが良かった、と荘子itは言う。
- 5年前のことも考古学ができるなぜ歴史学ではなく考古学と言うのか。
- ほっとくとこうなる収録前に、荘子itが2019年の『文芸』冬号に書いた文章が発掘された。
- 最後の平和ボケ2019年と2020年でトーンが変わった、という話。
- 上半身と下半身で別のゲームを同時にやる『群像』での東浩紀との対談を振り返って。
- 情報量としてはゼロなのに何かを言ったことになる存在より前に政治があるの実例として、福尾が高市早苗の国会答弁を挙げる。
- マジョリティをどう定義するかのフレームを作る速水健朗との対談から、福尾が引き出した論点。