2026年6月8日
存在より前に政治がある
定点カメラに戻した回。文芸誌への寄稿の話から、2019年と2020年でトーンが変わったこと、能力とは選ばないでいられることではないか、そして映画と哲学が出会うときに哲学の側に何がもたらされるか、という話へ。
話の流れ
- 0:00定点カメラに戻す今週からカメラの置き方を戻してみる。
- 3:32とりあえずボールをパスしてみる球技をやっていた者同士なので、まずボールを出してみて転がるかどうかを見る。転がらなかったということも分かる。
- 7:04小説を書きませんかと言われて依頼があって書いたきり、それっきりだった。それで次の仕事をもらえると思っているあたりがなかなかやばい。
- 10:35新しい文芸誌を買った方がいい古本屋で5年前の号を買うのではなく。『群像』の話へ。
- 14:06紙の質感がいいパラパラ見ると、視覚的にふわっと淡いものが感じられる。
- 17:362020年で爆発四散した絶頂を迎えて爆発というより、コロナの影響で。
- 21:07シティポップ的なノリが嫌いだった当時シーンが盛り上がっていたというより、その頃流行っていたノリが好きではなかった。
- 24:382019年と2020年でトーンが変わった2019年はまだ戦争があるとは思っていなかった。もちろん世の中では起きているのだが。
- 28:08千葉雅也とのイベントどういう話になるか。哲学をやっているのも変で、もともと美術や音楽が好きな、身体性がドライブになっている人だったはず。
- 35:10この領域では俺が最強という感じ菊地成孔や東浩紀のあり方との対比で、仏教における悟りのレベルのような話へ。
- 42:10選ばないでいられるのが能力可能性や能力は何かを選択するためにあるのではなく、しないこともできる状態にいられることこそが本当の能力ではないか。
- 45:40気の利いた返事がなくてもいい無理に批評的可能性のようなものを、重箱の隅をつつくようにひねり出さなくてもいい。
- 49:10フリッパーズ・ギターみたいになった30歳と50歳の男性二人が、そういう感じになって、それが良かった。
- 52:40裏も表も全部ひっくるめて政治タクティクスとして裏でごちょごちょやること、というのとは重ならない。
- 56:11AIに判断させたら情報量はゼロ本当は全然関係ないのだが、それでも何かを言ったことになり、存在を主張しはじめる。
- 59:41歴史と考古学歴史というと連続性が前に出るが、考古学というと不連続性が前に出る。5年前のことでも考古学ができる。
- 1:03:14大衆と同じレベルに立つのではなく「つまり大衆と同じレベルに立っているんですよ」ということをやっても今は仕方がない。マジョリティと関わる別の回路をみんなが探している。
- 1:10:17メジャーな方がむしろ残酷そちらの方がメジャーだったりする。残酷ですらないのかもしれない。そこをポジティブに肯定し直す。
- 1:13:47既存のコメディの内実を変える別の光を当てて概念そのものを変える。
- 1:17:17哲学が映画と出会って何が起きるか全然シネフィルではないし、映画と哲学はそもそも別だが、哲学の側に何か新しいことがもたらされるならそれは嬉しい。
- 1:20:47批評とは社会保障のようなもの東直子だったか、インタビューでそう言っていたのが良かった。
- 1:24:26階級闘争のコアな部分そこの緊張関係にこそ、一番コアな部分が出てくる。
- 1:27:58ツアーの告知8月21日のZepp新宿がツアーファイナル。6月14日の名古屋から始まる。
- 25:02最後の平和ボケ2019年はまだ戦争があるとあまり思っていなかった。
- 51:43上半身と下半身で別のゲーム思想哲学の話をしているけれど、下半身ではボールを蹴り合っている。
- 1:11:53マジョリティをどう定義するかあらかじめあるマジョリティに寄せていくのではなく、フレームを作ること。
- 1:17:19蓮實とドゥルーズの違い映画論が映画に追いつけるはずがないという負けの美学に対して。
この回で出てきた言葉
- 一昨日も一回撮ったこの回は撮り直し。
- 機械嫌い速水健朗の著書。
- 群像 東浩紀対談福尾と東浩紀の対談が載った号。
- 5年前のことも考古学ができるなぜ歴史学ではなく考古学と言うのか。
- 最後の平和ボケ2019年と2020年でトーンが変わった、という話。
- サリバン物語荘子itが「ぜひ見てほしい」と言う映画。
- しないこともできる状態にいられるのが能力『置き配的』の原型になった文章で、隠喩と換喩の話をずっとしたあと、いろいろすっ飛ばして出てくる話。
- 上半身と下半身で別のゲームを同時にやる『群像』での東浩紀との対談を振り返って。
- 情報量としてはゼロなのに何かを言ったことになる存在より前に政治があるの実例として、福尾が高市早苗の国会答弁を挙げる。
- 存在より前に政治があるドゥルーズを語っていて出てくる一句。
- 哲学の側に何かがもたらされるなら嬉しい蓮實重彥にあるのはある種の負けの美学だ、と福尾。
- 半角カタカナ論石破茂が「ねっとり」のミームになっている話から。
- 光を当てなければ生み出されなかった局所性Dos Monosは「奇怪なサンプリングのミクスチャー音楽」と言えば言えてしまい、AIにプロンプトを入れればそれっぽいものが出てきそうなタイプでもある。
- 批評は社会保障のようなもの東浩紀がインタビューで「批評とは何か」と訊かれて、社会保障みたいなものだと答えていたのが良かった、と荘子itは言う。
- ほっとくとこうなる収録前に、荘子itが2019年の『文芸』冬号に書いた文章が発掘された。
- マジョリティをどう定義するかのフレームを作る速水健朗との対談から、福尾が引き出した論点。
- リソースは一個でいい『群像』の新連載でも書いていること。
この回で触れられた項目
この回からの引用
60点70点だったなみたいなものを細かく直していくことによって点数を上げていくって、かなりむずいよね。
いやマジで自然状態感あるよ。ほっとくとこうなるって。
そうねだから本当にオルタナの夢だったのかもね。
→ 最後の平和ボケ
最後の平和ボケって感じあるよね。
→ 最後の平和ボケ
なんかその変化にさらされてる時の身体が一番ヤバいみたいな。仕上がって最強、この島で最強になってる状態よりも、なんならこっちの方がなんかエグくない、みたいな。
→ 千葉雅也
そもそも何かができるっていう状態がやばいんだみたいなことを言っていて、つまりpossibleっていうのはパッサブル。何かができるってことはパスできるってことなんだ。
可能性能力って何のためにあるかっていうと、何かを選択するためにあるんじゃなくて、しないこともできることがバラバラある状態にいることができるのが本当の能力だから。
密な状態と疎な状態だとやっぱり疎な状態がいいとされてるのは、やっぱり密だと単純にエネルギーばっかり食ってる状態になってややこしい。
そこも二層構造というか、思想哲学の話をしてんだけど、下半身ではボールをちゃんと蹴り合ってるというか。上半身と下半身で別のゲームをちゃんと同時にやってるというか。
現代人に求められる政治っていうか、だと思うな、その感じ。
ドゥルーズ語りもね、存在より前に政治がある。やばいよ存在より前に政治があるんだよ。
存在より先に政治があるはさ、タイミングとコンテクストさえ作ったら全国民爆笑できるじゃん絶対。
だからAIとかに判断させたら情報量としてはゼロだよね。なんだけどそれが何かも言ったってことになる、存在を主張し始める感じだね。
半角カタカナ圏にも若干興味はある。半角カタカナ論をいつか書きたい、全然材料がないけど。
→ 半角カタカナ論
歴史って言うと連続性が前に出てるけど、考古学って言うと不連続性が前に出てるみたいな。ざっくり言うとその違いなんだけど、5年前のことも考古学ができるっていう。
今マジョリティをどう定義するかっていうフレームを作ることがめっちゃ大事だなと思ってて。
そもそもマジョリティをどう定義するかっていうことの政治があるんだっていう。
AIがその言葉で表せる全体を網羅してるはずなのに、光を当てられなかった局所的なポイントみたいな、そこを抽出してる。
光を当てるってやっぱり一つの創造行為がなければ、もう永遠に発見されなかった、なんならもう生み出されなかった光を生み出すことによって本当に見出した、みたいな。
映画と哲学ってそもそも別だよね、そもそも違うんだけど、でも哲学が映画と出会って哲学の側に何か新しいことがもたらされるんだったら、それはそれで嬉しいよねって、ある種めっちゃドライな態度だと思うんだけど。
批評ってなんですかみたいな、社会保障みたいなものって言ってたのがすごい良くて。
本当お金もなくなって、どんな尊厳からも見放されて、何の権威性もない一人の男になったとしても、批評は面白いみたいな。
批評とか哲学ってのは本来なんか持たざる者たちのためのもので。
批評とか哲学ってのは本来なんか持たざる者たちのためのもので、つまり何の文化資本とかみたいなものがなかったとしても、哲学書とか何冊か読んだりとか何本か映画見たりとか、本当はそれだけでできるもんだから。
批評はめっちゃそのリソース自体が全然そうでいいっていうか、一個でいいんだよね。