出口そのものを作る
でぐちそのものをつくる
批評が対象作品を価値づけるための回路が、めっちゃ少ない——すでに共有されている道徳的な良さに回収するしかできない、と福尾。
番組より
批評がさやっぱり最終的に、その論述する対象の作品を価値づけるための回路がめっちゃ少ないっていう話だと思うんだよね。なんかすでに共有されてる道徳的な良さに回収するしかできないみたいな。
そのものの出口を作るみたいな、出口そのものを作るみたいなのは、なかなかあんまりない。
その中でできる肯定っていうことするんじゃなくて、信仰が崩壊した後の世界の出口の方のことがね、本当は言うべきことでもあるんだと。
この項目について
むしろそれ以外の出口を作品に与えることが批評の側でできなくなっている。荘子itは、20世紀には「みんなこういう話だと思ってるけど、こう読むと今生きてる世の中に対して見方が変わりますよね」という作品・批評・観客の光景が当たり前にあったのに、と受ける。演出やマニエリスムといった細部にこだわって大きな話とは別の良さを抽出することはできても、出口そのものを作るということはなかなかない。映画に対してある種の信仰を持っているからこそ、その中でできる肯定ではなく、信仰が崩壊した後の世界の出口の方をダイレクトに言う言葉を獲得したい、と。
この項目が出てくる回
関連項目
- 過保護と放課後村上春樹をめぐる言説を見ても、売り方としてパッケージングされた通りの消費のされ方しかしていない感じがして、それは寂しい——という福尾の話に、「過保護だと」「じゃあ密の次は過保護」と名前が付く。
- 消費のされ方でコンテンツを分けるドパガキ的な分け方は、消費のされ方でコンテンツを分けている——それは結構不思議なことで、実はあまり今までなかったのではないか、と福尾は言う。
- 道徳的に滅菌された状態で消費されているダナ・ハラウェイの受け取られ方について福尾が言うこと。
- 制度的にはそうなりました荘子itがこの回で離婚を報告する。
- アドマチックドパガキの対義語はセロトニンおじさんではなくアドマチであってほしい、と福尾が言い出す。
- 他者の魂を信じるための装置自分以外にも他者がいるということを信じる感覚は、アドマチックで生成される、と荘子itは言う。
- 誰も薬の話をしないケアや精神分析の2020年代的な消費のされ方を見ていて不思議なのは、誰も薬の話をしないことだ、と福尾。
- 家ではなく街に住んでいる家が一回なくなっても外側に街があるのは素晴らしいことだ、という荘子itの実感に、福尾が書きかけのエッセイを重ねる。