言語は全部借り物である
げんごはぜんぶかりものである
平野啓一郎が、編集者から送られてきた対談原稿に自分の発言として「〜みたく」という言い方が入っていたのが嫌だ、とXに書いていた件から。
番組より
小説家ってさ極端に言えば自分以外の言語を書けないといけないわけじゃん。自分の言葉じゃない言葉を書くっていう、めちゃめちゃある種逆説的なことを宿命づけられているのが小説家だと思うんだよね。
全部借り物なのに、あたかも平野啓一郎独自の明文化されるルールがあって、その境界線をはっきりしてるんだみたいな、そこを勝手にまたぐやつは許さんみたいな。言語ってそういうもんじゃないっしょっていう。そもそも借り物であることがデフォルトだから。
この項目について
福尾は「腹を立てている人に腹が立ってきた」と言う。チェックしてくださいと送られてきたのだから直して返せばいいだけで、これは実務の問題であると同時に言語とは何かの問題でもある。言葉には、自分では気づかないまま内面化してしまったルールが複合的に入り混じっている——この言葉遣いを自分はしがち、この言葉遣いは嫌だと思ってしまう、という生理的で説明できないものが、それぞれにいっぱいある。それがいっぱいあるということが分かっていることこそが言語についての理解で、小説家はそれを持っているべきだ、と。そもそも言語は自分のものではなく、全部借り物であることがデフォルトなのに、あたかも自分独自の明文化されたルールがあってその境界を勝手にまたぐやつは許さん、というのは言語をそういうものだと思っていないということになる。小説家は自分以外の言語を書けなければいけないという逆説を宿命づけられているはずだから、なおさら。
この項目が出てくる回
関連項目
- 否定され力音楽批評はずっと同じ二項対立の揺り戻しばかりで、全然アウフヘーベンしていないのではないか、という話から。
- パワーとタフネス可能なものとか、起こるかもしれないこととか、できるかもしれないものではなく——可能とか偶然とか必然でもなく——とにかくこれが起こったということは事実であって、その起こったことに対してどう自分が引き受けるか。
- 僕が興味深いと思うのは接続詞なしでガンガン書いていくのも好きだが、ありもしない接続を使うことがある、と福尾は言う。
- 疎の街が現実の空間に影響しているとしたら鳥取のジグシアターに、3年前に移住してきた左官職人の人がいて、「ここは結構、疎の街をうまくやれてると思うんですよ」と言ってくれた。
- 相対的匿名性いま同じことをXで言っても変なポジショントークに回収されるだけだから言わない——ポッドキャストくらいが適度でいい、というところから。
- 音楽批評には敵がいない今は肯定性の文化だから、敵を作るのは結構大事だ、と福尾。
- 気持ち悪がられ可能性否定され性と並んで出てくる言い方。
- 程度問題という言葉が持つ無害化の力「さすがに」と「とはいえ」はニュアンス的に近い、という話から、結局すべては程度問題だ、というところへ。