二次的ではあるけどメタではない
にじてきではあるけどめたではない
福尾には「メタ」という意識があまりない。
番組より
コンテンツに対するメタな評価が批評なんじゃなくて、コンテンツの二次的なコンテンツが批評だから、二次的ではあるけどメタではないみたいな。そこになんかこう階層の違いはないっていうか。
この項目について
批評は普通に考えればメタ言説なのだが、『置き配的』ではメタ性と二次性は違うという話をしようとしている——コンテンツに対するメタな評価が批評なのではなく、コンテンツの二次的なコンテンツが批評だから、二次的ではあるけれどメタではない。そこに階層の違いはない。その階層の違いに逃がしてきたものを、いかにベタの平面に押しつぶすか。だから日記も書くし、日記もエッセイも批評も結局全部文章だから一緒というところまで行きたい。荘子itは「事後的なというのも二次的なというのも、単に同一平面での出来事なんだ」と受ける。
この項目が出てくる回
関連項目
- サンプリングでジャケを作るジャケットの猿が着ている黒いパーカーは、もともと存在しないものだった。
- 自分で提案するベーシックインカム離婚して逆に生活が整っている、という話から。
- 存在からたまに通知が来る支払いの催促の話から。
- メタのメタなのに着地はベタロジックを辿っていくとメタのメタなのだが、着地しているところは完全にベタ側。
- 35度超えの正解はまだ提案されていない半袖Tシャツと半ズボンをちゃんとおしゃれに着るのはめっちゃ難しい。
- コカ性伊良コーラを飲む荘子itと、コカ・コーラを飲む福尾。
- 人工的なリアルとリアルな人工性映画は自然主義的なものがかっこいいとされがちで、古くはアンドレ・バザンのモンタージュ批判から、今ならホン・サンスまで。
- キモさを通過していないやつが面白くなれるのかリチャード・リンクレイターがゴダールの若き日を描いた『ヌーヴェルヴァーグ』の話から。