2026年4月20日
1周年ありがとう
番組一周年の回。オンラインコミュニティ「疎の街」がオープンした。
話の流れ
- 0:53疎の街がオープンしました疎と街を掛け合わせた名前。荘子itは『Dos City』という街から来た音楽家で、疎の街といえば福尾匠と荘子itの空間のメタファーとしてちょうどいい。
- 14:45適度に疎な街過疎の街みたいな感じだけど、過ではない。適度に疎な街がいい。
- 25:53荘子itがラップを始めた頃一周年ということで、二人が何をやってきたかを振り返る流れになる。
- 36:50アートウォッシュされた街福尾が住む黄金町は、もともと青線地帯だったところを全部ウォッシュしてアートの街として売り出している。横浜トリエンナーレのたびに黄金町バザールがある。
- 37:32浄化されても無くなってはいない一帯は完全に浄化されたが、性風俗産業そのものが無くなったわけではない。移動しただけ。その全体の薄ら寒さ。
- 47:40ブームはハイプであるポッドキャストブームも令和人文主義も、人工的に作り出している側面が絶対ある。「ポッドキャストブームということにしようぜ」のためのサミットでもある。
- 48:00密になってきているなかでこそポッドキャストというものが密な状態になってきているなかでこそ、番組がクロスオーバーする場を作ろうとしている。
- 56:00ツアーの告知最後は告知へ。
この回で出てきた言葉
- アートウォッシュされた街福尾が住む黄金町は、その典型だと言う。
- あえて性を脱色する90年代の美学で言えば、それは 「透かし」「外し」 として言われていたもの。
- 許可された途端に疎がなくなる**「ここに彫刻を置けるぞ」という発見と、 あとから来た我々がその彫刻を発見すること—— その連鎖のあり方が疎。
- 虚構を現実化したい派と現実を虚構化したい派荘子itによる、めちゃくちゃ雑な分け方。
- 口が先に動くTaiTanに番組を褒められたとき、 **お礼ではなく「福尾がポストポストアポカリプスと言っていたのを 微妙だと思って『しっぽ』にした」という説明を早口でしてしまい、 「手柄を全部横取りしようとしている」ように見えてしまった。
- 高校生バンドみたいなノリで始まってほしいポッドキャストが流行ってきているので、 **クラスの面白いやつと「実は俺も面白いんだよ」と、 昔で言えば「芸人一緒にやらへん?」というノリで、 「ポッドキャスト一緒にやろうぜ」というのが起きているとしたら、 それはめちゃくちゃバンドで、そう
- 週1回スナップされる服番組が3か月前からビデオありになって、 **週1回、私服を見せるという形式になった。
- 主体的に疎にしていく一緒に行こうと言われてすっぽかされ、一人で美術館に行くほうがいい。
- 疎の街番組のオンラインコミュニティ。
- ちょっとつついたら泣いちゃいそうな自分**寂しさというものに向き合う時間が、今どんどんなくなっている。
- 20年前の東浩紀として振る舞わされる対談後のツイートの「20年後の君に期待している」について。
- ブームはハイプであるポッドキャストブームと呼ばれるものがあるらしい、というところからポッドキャストサミットというイベントが立ち上がっている。
- 本当の無駄「無駄がいい」という話は、すぐ大落ちしがちだと荘子itは言う—— **年収数千万の広告系の人が言う「無駄が大事だよね」ではなく、 本当の無駄がやりたい。
- 呼んでいないのに来ないやつに怒る対談の打ち上げのあと、東浩紀のタクシーをみんなで見送って解散した直後、 「**群像編集者と福尾匠は二次会に行っているに違いない。
この回からの引用
口が結構先に動いちゃってるんだろうね。だから自分は繋がってるつもりで、十全にその意図が伝わってると思っても、普通に間違いみたいな。
→ 口が先に動く
冗談になるうちにさ言ってくれて、本当にね。
→ 口が先に動く
過疎の街みたいな感じだけど、過ではないからね。適度に疎な街。
→ 疎の街
東さんにとっては僕って20年前の東浩紀だし、今の東浩紀は20年後の僕なんだよね。
そこのなんか時空の狭間にどんどん逃げていかれる、向き合わない、そこの態度がどうしてもやっぱ崩せなかった。
虚構を現実化したいタイプだと思うよね。もちろんそれがいろいろ入り混じってくれるんだけど、活動の中で。現実を虚構化するタイプっていうのが、俺の中ではめっちゃざっくり分けると。
後天的に読んだ本の影響とかではなくて、もっと生理的なものとか生得的なものに由来するとこ結構あると思うんだよね。
東さんは呼んでないのに来てないやつに怒ってて、荘子くんは呼んだのに来てない。そこすごい、めっちゃ真逆になってて面白いなと思ったんだよね。
ただ多分寂しくなっちゃったんだよね、一人でタクシー乗ったら。そこがなんかね、人間味あるっていうか。
自分の心の中に常にいる、ちょっとつついたら泣いちゃいそうな自分みたいなものって、みんな誰しもいると思うんだよね。
それが一瞬風に晒される瞬間があるっていうか、そのヒリヒリ感みたいなもの。
僕が疎にしてるわけ。そこでさ、来いよって約束したんだから来いよって怒っちゃったら疎にならないわけじゃん。
そのなんか疎にしていくっていう、主体的に疎にしていくムーブも結構大事みたいな感じはあるけどね。
疎を発見するっていうところから始まるもんだからさ。それこそ、ここに彫刻を置けるぞみたいな、それを発見する。
でもそれがさ、一転して、ここでスケボーしていいですよって言われると途端にそうじゃなくなる。
僕が住んでる黄金町も、アートウォッシュされた街の一つの典型みたいなもんで。そこを全部ウォッシュして、アートの街みたいな感じで売り出そうとしてる。
あえてやってる性をどうやって脱色するかみたいな。あえてそうやってるんじゃなくて、マジでベタに疎なんだみたいな。
そこをだからうまく脱色して抽象化して、なんか端的にポジティブな欲望として肯定し直したっていうのが。
週1回別にちゃんと本当に考えてコーディネートして毎回来るとかじゃなくて、なんかめっちゃ自然にその日来てるものが週1回スナップされていくのって、なんか形式としてめっちゃ疎だなと思って。
週一だと重なってる部分とずれていく部分の塩梅がちょうど良くなる。
あらゆるブームってハイプだからさ、人工的に作り出してる側面も絶対あると思うんだけど。ポッドキャストブームっていうことにしようぜっていうためのサミットであるっていう側面もあるんだけど。
要は高校生とか高校生バンドみたいなノリで、クラスの面白いやつと、実は俺も面白いんだよみたいな、昔で言うと芸人一緒にやらへんみたいなノリとして、ポッドキャスト一緒にやっちゃおうぜみたいなのがあるとしたら。
あんまり最初からそういうビジネスなのか、そういう別の価値なのかみたいな大人のロジックの対立の中で、あんまり語らない方がいいんじゃないかな。
本当の無駄がやりたいみたいな話だけど、本当の無駄ってだから、無までいかない操作みたいな、そういうあるよね。
→ 本当の無駄
無駄がいい的なことって結局ヒューマニズムに回収されがちだからね。ヒューマンじゃないんだっていう。
→ 本当の無駄