マジョリティをどう定義するかのフレームを作る
まじょりてぃをどうていぎするかのふれーむをつくる
速水健朗との対談から、福尾が引き出した論点。
番組より
今マジョリティをどう定義するかっていうフレームを作ることがめっちゃ大事だなと思ってて。
そもそもマジョリティをどう定義するかっていうことの政治があるんだっていう。
この項目について
『機械嫌い』は、セルフレジでもたつく人や予約制の美術館にイラッとする人をマジョリティとして再定義している本で、「これからAIについていけるっしょ」という人のほうがある種のエリート層=マイノリティになる。『置き配的』は、保守とリベラルの泥仕合のような密な言論の世界にいる人が数で言えばマイノリティであるとして、その外側のサイレントマジョリティを「疎」という概念で救おうとした。東浩紀の『平和と愚かさ』も、三宅香帆の「働いてると本が読めない人たち」も同じ。マジョリティがあらかじめあってそこに寄せていくのではなく、今マジョリティをどう定義するかというフレームを作ることが大事——それが前半の存在より前に政治があると接続する。批評はエンタメにはなり得ない、というのが福尾の前提。
この項目が出てくる回
関連項目
- しないこともできる状態にいられるのが能力『置き配的』の原型になった文章で、隠喩と換喩の話をずっとしたあと、いろいろすっ飛ばして出てくる話。
- 存在より前に政治があるドゥルーズを語っていて出てくる一句。
- 批評は社会保障のようなもの東浩紀がインタビューで「批評とは何か」と訊かれて、社会保障みたいなものだと答えていたのが良かった、と荘子itは言う。
- 5年前のことも考古学ができるなぜ歴史学ではなく考古学と言うのか。
- ほっとくとこうなる収録前に、荘子itが2019年の『文芸』冬号に書いた文章が発掘された。
- 最後の平和ボケ2019年と2020年でトーンが変わった、という話。
- 上半身と下半身で別のゲームを同時にやる『群像』での東浩紀との対談を振り返って。
- 情報量としてはゼロなのに何かを言ったことになる存在より前に政治があるの実例として、福尾が高市早苗の国会答弁を挙げる。