2026年3月16日
映画と税金
東浩紀や千葉雅也との距離の話から、強い思想を持った人に食らうこと、そして確定申告の話へ。何が経費になるのかを見ていく時間が、例年と違って楽しかった。
話の流れ
- 3:10酒を飲みながらの雑談TaiTanとの収録はひたすら雑談だった。またプロデュースするらしい。
- 6:20発信してから読んで感想をつぶやく売れているからではなく、ある程度自分発信で話題になってから読む、という順序。
- 9:31朝まで飲んだゲンロンカフェのイベントの後に東浩紀が来てくれて、朝まで飲んでいた。
- 12:41俺だけ好きじゃなかった『ブゴニア』の話。見ていない人のために、ネタバレをせずに。
- 15:52霊障という言葉は使いたくないがキューブリック『博士の異常な愛情』のような。
- 34:53存在しない欲望を憑依させる言葉にすると体感できないものも。
- 38:03リングの外で喋る感じ安心して殴り合えるボクシングのような映画があるとしたら、その外側で喋っている感じ。どちらもあっていい。
- 41:13千本ノックで言葉を鍛えられた今ならほぼパワハラと言われてもおかしくないような、超厳しいやり合い。それでも言葉は鍛えられた。
- 44:24強い思想を持った人に食らうそういう人がいるのだと知ることは結構食らう。そこから保守になる人もいれば、のらりくらりやる人間もいる。
- 47:34面白いことを書くためのマインドセットその構えのコアのようなものが、指標については特にある。
- 50:45マイナンバーカードの期限が切れていた電子証明の期限。そもそも白色申告だから。
- 53:56例年と違って楽しかった領収書などを見ていくのが、本当は好きなのかもしれない。
- 57:06仕事で呼ばれた先での飯は経費になるのかただの悪魔のささやきではある。そもそもレシートを持っていないのでやりようがないが。
- 1:00:17踏ん張らなくてもできる状態を期待して頑張る普通に曲を作るという自然にやりたいことをやっていて、うまくいく状態を目指している。
- 1:03:29調子に乗って使いすぎると今年やばいラッパーはそうなりがちだ。
- 1:06:39告知Dos Monos は20日にでかいライブがある。
この回で出てきた言葉
- 色がつかないようにする千葉雅也が『置き配的』を、出てから半年ほど置いてから読み始めた。
- 公に出すからこそ偏った主張ができる創造的な非対称性を荘子itが受ける。
- 嫌悪感しかない立場の圧倒的な力大学時代、荘子itが一番よくコミュニケーションを取っていたのは 保守系の非常勤講師だった。
- 残虐行為の創作性ゼロ報じられた事件の内容について荘子itが言うこと。
- 自分で生み出すベーシックインカム福尾が完全フリーランス2年で 「普通に大学の先生になってもらえるくらいのお金は一人でも稼げる」 という感触を持った、という話から。
- 書評を依頼された時点で読者になれない作家二人の読書会で出ていた指摘として荘子itが紹介する。
- 千本ノックで言葉を鍛えられた今ならほぼパワハラと言われてもおかしくないような、超厳しいやり合い。
- 創造的な非対称性『置き配的』の最後に書いた話。
- 認知のギャップが対話に現れる目の前に作品があると記述しなくて済むの代案として福尾が出すもの。
- ハラスメントは引用されているジュディス・バトラー『触発する言葉』を福尾が紹介する。
- 目の前に作品があると記述しなくて済むアート関係の仕事で、対話型鑑賞をやってみたいという依頼を受けたが、福尾は最終的にその形は嫌だと言った。
- リングの外で喋る安心して殴り合えるボクシングのような映画があるとしたら、自分たちがやっているのはそのリングの外で喋る感じだ、と荘子itは言う。
- ロールモデルがいなかった10代・20代の頃、ロールモデルになる人がいなかった、と荘子itは言う。
この回からの引用
ある程度時間が経って、千葉雅也の力で売れてるんじゃなくて、ある程度僕発信で話題になってから読んで感想つぶやくみたいな、なんとなくそういう呼吸でやってくれてるのかなみたいなのを勝手に思ってる。
その判断をする千葉さんのその生理自体が、やっぱりすぐ即座に反応してしまうっていうことのいろんな側面を身体レベルで理解してる。
やっぱり書評として依頼された本はもう読書にならないっていうか。面白がれるものなら面白がりたいってやっぱ思っちゃうし、お金ももらってるから褒められるものなら褒めたいって思っちゃう。
そこに下駄を履かせてる時点で、やっぱ作品を本当に評価することできないみたいなこと言ってて。
暴力的な平等性がSNSの社会を覆ってて、でも物を作るっていうのは創造的な非対称性みたいなものを生み出すことなんだ。
→ 創造的な非対称性
人間同士のダイレクトな関係であったらまずいものを、ものを作ってそれを媒介にすることによってポジティブなものに変えることができる。だからこそものを作らないといけない。
→ 創造的な非対称性
公に出すことによっていろんな目に晒されるという前提の下で、偏った主張が初めてできる、暴力的な表現もできるっていう感じなんだよね。
公的な場所とその閉域を勘違いしちゃってるっていうか、本人もパフォーマンスのつもりでセクハラをしてるみたいな、よくあるじゃん。
ハラスメントを引用してハラスメントしてるっていうか、そのなんかあると思うんだよな。
悪口ってだから恐ろしいのは、言ってみたくなるものだっていう構造が必ずあるんだよね。
そこで行われてることってめちゃめちゃステレオタイプな残虐行為で、全くそういう工夫とかオリジナリティがない。だからそういうところにも支配の虚しい栄光が見える。
言葉にすると体感できないものも憑依させることができる、っていうかそういう感じはしたんだよね。
なんか安心して殴り合えるっていうボクシングみたいな映画みたいなものがあるとしたら、なんかそのリングの外でなんか喋る感じだよね。
→ リングの外で喋る
つまり目の前に作品があるからさ、何が起こるかっていうと、記述しなくて済むんだよね。全部指差して、これがって言えばいいから。
一つの展覧会を一通り見た後に、どっかで集まって、それぞれが自分が面白いと思った作品を一個ピックアップして、それについて言葉だけで改めて説明して。
認知のギャップっていうか、好奇心のギャップみたいなものが、そのままその対話に現れた方が面白いんじゃないかな。
お前が本当に面白い、今面白いとか言ってるのなんか人に面白いと言わされてるだけだ、ぐらいの感じで説明を求められたから。確かにそれはベースとして、それを鍛えられなきゃいけない。少なくとも言葉で何かやっていくんだったら。
基本的にちょっと嫌悪感しかないような立場の人の圧倒的な力をちゃんと見せつけられて、自分もそれにいいと思うところがあって、ついていきたいとか学びたいと思うのがあって、コミュニケーションを頑張って取ってみる。
大学という場じゃないと成立しなかったコミュニケーション。
自分で生み出すベーシックインカムみたいなことのなんか居心地の良さは。
好きでやってることでいつの間にか生きてられるって、ほとんどベーシックインカムみたいなもんだと俺なんか感じちゃうんだよね。
俺が10代の時、大学生の時とかのロールモデルになる人いなかったんだよね、あんまり。
批評とか哲学の世界でも、やっぱ大学の先生か東浩紀かみたいな二択みたいなイメージあって。